作文は訴える・沖縄の子ら
Vol.3-8.13-942 作文は訴える・沖縄の子ら
2022.08.13
「沖縄の子ら」という作文集。
1966年(昭和41)に、日本教職員組合・沖縄教職員会が編者となり、合同出版㈱から出版されたものだ。
今から56年前、この時、沖縄はまだ本土復帰を果たしていない。この本が出版されて6年後、27年間の占領下体制を経て、やっと本土復帰を果たす。
終戦でほっと一息ついたのは日本・本土に住む日本人だけである。
ただただ平和の有り難さを知り、ものが何もない中にも戦争が終わった安堵と、働けば何とかなるという確証のない希望だけがあった。
しかし、沖縄にはさらに27年、日本でありながら日本ではない屈辱の日々があった。
本土・日本は奇跡の復興を遂げ、明日は生きる希望の日、豊かになることを日々実感する中に生きた時代だ。あまりにも対照的な戦後である。
果たして、この27年、誰が、どの日本人が、沖縄が米軍の占領下にあり、本土に来るときにパスポートがいる。国旗掲揚すら許されない。車は左側通行、通貨はドル。粗末な学校の設備、日々轟音と、危険の中にさらされる実態を知っていたであろうか。
恥ずかしながらジイは知らなかった。
昭和47年5月15日、本土復帰のセレモニーが盛大に行われ、今日から車は右側通行に変更される。大変だなと思った記憶だけである。
その後、沖縄は反米感情よりも「基地撤去」が沖縄の核心となり政権批判材料となった。
敗戦後、米軍の占領は極東の極度の緊張を理由に沖縄を占領地とした。ベトナム戦争も沖縄から飛び立っていったのである。
戦時の悲惨は別に沖縄だけが被ったわけではない。広島、長崎の原爆、東京大空襲、各主要都市も空襲を受け多大な被害を受けた。
戦争による民間人の犠牲者は、広島14万人、長崎73千人、東京107千人、沖縄94千人とある。
沖縄を除けば原爆と空襲被害である。沖縄は唯一本土決戦という極めて過酷な陸上戦を戦ったことで特別である。多くの慰霊碑はその凄まじさと悲惨を物語る。このことはやはり特筆すべきことである。
戦争は終わった、米軍が立ち去ると思いきや米軍は居座った。本土とは天と地ほど違う戦後を歩むのである。
この本には、順調に進む本土の戦後復興を横目で見ながら、その差の大きさを実感しつつも、置き去りにされたという本土への恨みや怒りの言葉はない。小中学生ということもあるが、日常の生活を綴ったもの、本土復帰に熱い思いがこもったものなど素直な心が表現されている。
◇国旗「日の丸」(中学1年・景哲くん)
日の丸、それは我が国のしるしです。シンボルです。わが日本国民には、日の丸という、立派な国旗があります。旗の中心の丸は、角がなく、平和の象徴だといわれています。・・・なぜ、国旗掲揚、降下の場合なぜ、話しあわないで立派に立つことができないのでしょう。・・・そこに僕は疑問を感じます。
◇「ヤマトの人」(小学3年・剛君)
先生が「わたしたちは、どこの国の人でしょう」ときいたので、みんなは、「日本人です」といいました。
ぼくは家へかえってから、「おじいさんは、どこの国の人ですか」と、いいました。おじいさんは、「みんなヤマトんちゅうだよ」と、いいました。おじいさんは「日本はね、ヤマトというんだよ」と、いいました。
おじいさんは「むかしはね、アメリカの人は、ここにはいなかったんだよ」と、いいました。
大どおりから、アメリカのへいたいがのった、大きなトラックが、けたたましい音をだして、ものすごく走っていきます。ぼくは、それを見ると、またも、せんそうが、おきるのではないか、と思って、むねがどきどきします。ぼくは、足がよわいので、にんなのように、走れません。
◇本土と沖縄(中学3年・順子さん)
現在の沖縄は、戦後21年、ずっとアメリカの施政下におかれている。政治面、経済面において、アメリカの援助を受けながらも、なお、「祖国」というものを、忘れたことはない。・・・
第二次世界大戦以来、沖縄は本土ときりはなされ、何かと不自由を感じてきた。私は、豆記者として本土に行くとき、船にのる時、おりるとき、いちいちカバンをあけて税関の検査を受けた。本土から小包を送ろうとすると「汽車便で送った方がよいでしょう」と言われた。「沖縄は汽車は通っていませんよ」と答えたら、「あっそうか、じゃ外国便だな」という。そのとき、大変なさけないと思った。
◇「ぼくは生きたい」(中学3年・曙美さん)
裁判がひらかれるまえに私たちは、陳情文を出したり、いろいろ運動しましたが、その裁判の判決が、無罪となったと知ったときは、判決に対する怒りよりも、それほど裁判とは、国場君にとって残酷なものであり、無慈悲なものであろうかと悲しみました。
・・・国場君と一緒に、横断歩道を渡っていた学友たちは証人台で、こう述べたといっています。
「ぼくたちは、ちゃんと信号をみて、青信号のとき渡ったんだ」と。
・・・・・軍の方々や政治をなさる方々はじゅうぶん注意されて「だれもが安心して生きていける世の中」「だれもが生まれてきてよかったと思えるような世の中」「自分を大切にするかたわら、他人をも大切にすることのできる世の中」そういう世の中を作ってもらいたい・・・・・。
【国場君事件・・・1963.2.28に青信号で国場君をひき殺した。米ジャクソン2等兵はアメリカの軍事裁判にまわされ無罪。同年夏帰国】
◇へいわこうしんだんをむかえた日(小学校2年・ちさこさん)
わたしたちは、まいねん ひのまるのはたをもって、へいわこんしんだんを むかえています。
・・・せんそうにまけて、あめりかの人が、かってにして、「ひのまるのはたも、きまった日にだけ あげられるのよ。」おかあさんから、いろんな話を ききました。
・・・おおきくなったら、日本に いって、かんごふさんに なりたい。はやく、みんな、日本人に なりたいと思います。
◇講堂もしらないわたしたち(小学5年・美貴子さん)
・・・本土の一部のちいきでは、沖縄は、どこにあるのかもしらない。どういうことばを使うのかしらない人もいるらしい。そういう人たちに、早く祖国復帰して、私達も、日本人であるということをみとめてもらいたい。
◇沖縄をとり戻して(中学3年・キミ子さん)
・・・日本復帰、日本復帰。
もう聞きあきるほど聞きました。
「どうして、私達は日本人なのに本土と沖縄とではお金が違うんですか」と聞くと、人びとは、悲しそうに答えます。
「沖縄はアメリカに占領支配されたしまったから。」・・・・・
アメリカ支配下にあるという事実が、沖縄の政治、経済、教育、文化のすべてをゆがめているということも否定できない事実です。
私は一日も早く日本に復帰し、このようなことを改め、本土と肩をならべることのでき日を心から待ち望んでいます。
ここに紹介したのはほんの一部だ。この作文からは “ 恨み ” “ ひがみ ” などすねたような感情は一切ない。素直に沖縄の現実が語られ、日本人になりたい。一日も早く本土に復帰したい。この普通に過ごすなかでも、常に私たちは “ 日本人なんだ ” という切なる思いがヒシヒシと伝わる。
時々ニュースになる米軍兵士の理不尽な犯罪も、兵士その家族は日米地位協定によって守られる。よほどのことがない限り犯罪者は無罪、または軽い刑で復帰する。一度や二度ではないこの屈辱的な扱いに沖縄の人の怒りはマグマのごとく渦巻いている。
現在もそうであるが、特に復帰前、この作文にあるように犯罪者が裁かれない理不尽に沖縄の人は苦しみもがいてきたのである。
これらの作文からさらに復帰まで6年を要している。
ジイなどは、沖縄の左傾化した土壌、辺野古移設反対、活動家たちによる暴力的デモ行動に路上妨害、沖縄全体に嫌気がさすこともたびたびであった。
ジイは本来「沖縄ノート」(著者:大江健三郎)に疑問を抱き、『沖縄戦・渡嘉敷島/集団自決の真実』(著者:曽野綾子)を信じるものである。しかし、子供たちの素直なこの作文には本土人として反省しかない。沖縄に思いを馳せ、共感し、気持ちにおいてさえ何もしなかった悔悟の念もある。
今年は本土復帰50年である。
沖縄が再び戦火に巻き込まれないために基地議論は国民議論に高めるべきである。
憲法議論も進むことであろう。このチャンスに日本人に真剣に問いかけるべきではないか。「防衛において日本全体で考える」そんな提案を政府は日本人に問うべき時ではないか。
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