ありふれた日常の優しさ
Vol.1-6.21-159 ありふれた日常の優しさ
2020.06.21
久しぶりにBSで「若草物語」を見た。
有名な映画なので多くの方が見ていると思うが、ストーリーはざっとこんなところだ。
※ 南北戦争時代、父が北軍の従軍牧師として出征し女ばかりとなりながらも、慎ましく暮らす一家。
父の無事と帰還を祈り、優しく堅実な母親に見守られながら、マーチ家の四人姉妹メグ、ジョー、ベス、エイミーは裕福ではなくとも明るく仲睦まじく暮らしている中流階級の家庭である。
家庭に起こる楽しい出来事や悩み、事件、そして大きな試練が姉妹達を少女から少しずつ大人へと成長しながら物語は進む。
長女メグが結婚し、ジョーが袖にしたローレンスが妹と結婚。それぞれの姉妹が出会う出来事が群像的に描かれる。
その間に、隣に住む老人セオドア・ローレンスとべスとの交流も映画に深い味わいを持たせている。
ジョーは作家への夢が捨てきれずニューヨークへ修行に出る。
そこでベア教授と出会い、徐々に親しくなり恋心も芽生えるが、ある時作品を酷評されてしまう。傷心の中、人手がなくなった実家へジョーは闘病中のベスを看病に帰る。そしてその最期を看取ることになる。
看病する中で、ジョーはそれまで抱いてきた野心よりも、家族のために尽す誠実な努力の大切さをベスを通して知る。また、ベスの喪失を経たジョーの人間性は深みを増し、ベア教授からの示唆もあって一つの作品を仕上げる。
その出来上がった本を持って訪ねてきたベア教授。来客中を察し、ジョーと会わずに本だけを渡して帰ってしまう。それを知ったジョーは雨の中を追いかけ連れ戻すところで映画は終わる。
終わり方がいい、明日のハッピーエンドを確約しているわけではないが、明日は何か良いことがあるかもしれない優しさと希望を予感させるのだ。
決して夢のような明日ではない。普通であるが、悲惨な明日ではない。
ファミリー映画にはそれがないと寂しい。
チャップリンの映画もハチャメチャな喜劇の中に人間の哀しさと優しさがある。
「黄金狂時代」という映画。
一攫千金を狙い山へ登ってくる山師たちの騒動を描いている。
山の麓の酒場で知り合った女性ジョージアを好きになり、ある時ジョージアたちをパーティーに誘う約束をする。彼女たちが帰った後、喜びを爆発させたチャーリーは部屋の中を飛びまわりながらクッションの中の羽を小屋中にまきちらす場面がある。羽だらけになったところへ、忘れ物を取りに来たジョージアにその滑稽な姿を見られてしまう。この純粋すぎる喜び表現も笑えるが、いくつもの笑いの傑作が詰まった作品だ。
チャップリンの映画は喜劇だから暗いわけはないが、悲しみもある。しかし最後は人間ハッピー!!で終わるのがいい。
チャップリンの映画もうひとつに「モダンタイムス」という機械文明に対して痛烈な諷刺を込めて描いた有名な映画だ。
休む暇もなく働く労働者チャーリーが、ある日出会った少女と意気投合し、チャーリーは、2人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
しかし何もかもうまくいかない。
運よく手にした彼女との仕事も、役人に追われる羽目になり職を失う。
やっとの思いで手に入れた幸福すらも失い悲しみに打ちひしがれる少女を、木陰に座ってチャーリーは力強く励ます。
その内、二人は未来に希望を見出し、元気に歩き出す。
二人の歩く後ろ姿で映画は終わる。
その後ろ姿はバラ色の未来を予感させるわけではない。
前を向いて歩けば何かあるさ、というあてのない希望という淡い明日だ。
その後ろ姿に悲惨がないどころか、明日の予定のない二人の後姿から元気をもらうのだ。
明日は何かある。頑張ろうね!という暗黙の優しさだろうか。
映画ってホントに良いですね。
久しぶりに淀川さんの「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」を思い出した。