映画と生きた淀川長治
Vol.1-11.11-302 映画と生きた淀川長治
2020.11.11
今日は映画評論家・淀川長治氏の命日である。
映画を愛し、映画と生き、映画に抱かれて89歳の人生に幕を下ろした稀有な映画人であった。
有名と言えば、約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」は知らない人はいないだろう。何しろ、映画が終わってもこの言葉を聞かないと映画が観終わった気がしないと言う人もいたくらい愛されていた。
当時日経新聞の文化部次長・内田洋一氏の追悼コラムがある。
◆「私はもちろんのこと貧乏覚悟。一日2食覚悟。嫁さん、子供を持たぬことも覚悟。かかる人間はぜったい家庭など持てまい。ただ映画だけにしがみつこう」と、日経新聞掲載の「私の履歴書」で淀川長治さんは、少しも飾ることなく人生を振り返っている。
人見知りが激しく、ブランコに乗るのを怖がる子供だった。学校でいじめられ、家では奔放な姉たちに翻弄される。勉強嫌いで数学はまったくダメ。大学受験の当日は、布団をかぶって寝てしまう。
「ものを読んでいるとき、そばに人間がいると絶対ダメ・・・・」
「私はへんちくりんな人間だった」と告白する淀川さんは極度に神経質で「まともに人の生活をやれそうにないという不安があった」
だが、映画への思いだけは人に負けない。・・・・・、お先まっくらになった時も映画にすがることで生き抜く。映画からすべてを教えられたといい、「苦労こい」「他人歓迎」「私は、まだ嫌いな人に会ったことがない」と語り、映画への愛情は信仰の対象とおもえるほど尋常ではなかった。
と語っている。
ジイはその日経新聞「私の履歴書」に書かれたチャップリンとの最初の会見と二度目に会った時の感動的に書かれている部分だけの切り抜きをスクラップしている。
その一部を紹介したい。
『大阪時代における私の生涯の大事件は・・チャップリンに直に42分間、一対一でひざをつきあわして会ったことだった。
・・・昭和11年3月、私は26歳。チャップリン46歳、そして花嫁ポートレット24歳。
大阪に私がいて、私の映画の神様が神戸に。このチャンス、会わねばならぬと決心した。「ゆきます」と大阪ユナイトの外国人支配人ジャッケリン氏に言うと、彼は真っ青になって、私を叱りつけた。
「お前がそのようなことをすれば、大阪のユナイトの社員はじめ、私までクビだ。絶対ゆくな」
そう叱り飛ばされても私は行くと言い、行く覚悟を見せた。私の必死さを見てとったか、ジャヶリン氏は口をゆがめ、片目を閉じて、首をゆるやかにタテにおろした。・・・・・・
船に到着、かけ登ろうとすると、船員にストップをかけられた。やがて船長がきて、完全にNO!
そこで私はユナイトの社員であること、やがて「モダンタイムス」の宣伝にあたることをコンコンと告げた。
すると船長、唇をかんで「デッキのあのベンチで待ちたまえ」と言った。「チャップリンは食事に行った。30分待て」と言った後、「チャップリンと会うのはこのデッキで3分だ」と念をおした。
・・・・・・
いつくるか、いつ来るか胸が痛いほどドキドキした。
「来た~」私は飛びあがった。2台の車が船の入り口についた。その1台からチャップリンとゴダード、後の1台からコダードの親とその仲間2名が降りた。
デッキからチャップリンが上がってくる。船長が迎えた。はるか甲板のはしで、それを見ていると、船長が足早に私の方にやってきて「3分間!」と言った。私はありがとうとうめき声をあげた。
このチャップリンと私は、この後42分間個室で話し合ったんだ!。』
これが1回目の会見だ。
2度目は46歳ハリウッドを訪ねた時のこと。
『スタジオのセットの中に入れてもらえた。小さな小さなハリウッドのスタジオ。それは「ライムライト」の撮影中だった。
見た、見つめた。私のすぐ手のさわれるところで、チャプリンがしゃべっている。「The time is a great author・・・・」。このような台詞。チャップリンは何回もくりかえした。
「時とは立派な作家だ。若い人を一緒にし、老人を去らしてゆく・・・・」私はその台詞に聞き入った。涙があふれた。あのサイレントのパントマイムの王様がいまここで、灰色の毛髪になって、台詞をしゃべっている。
・・・・イエースと小声でOKの合図をした。スタジオ内のすべての人、電器屋さんもセットの係も、みんながチャップリンのオーケーの瞬間、小さな音をたてて小さく、しかし嬉しげに手をたたいた。
私がぽろぽろと涙を落としているのを見て、チャップリンが「なぜ泣いたのか」と言った。・・・・チャップリンの髪の毛がグレイからホワイトになっていることを伝え、・・・ザ・タイムとおっしゃった、そのタイムと言う声を聞いて思わず、お恥ずかしいが、涙が・・・というと、チャップリンは私を抱きしめてくれた。』
これが2度目に会った時だった。
ジイはこのライムライトをみる時、カメラの後ろにあの淀川長治が涙を流しながら、この撮影を見ていたのかと思うと不思議な感じを抱かずにはいられない。
同じく、淀川氏が亡くなって追悼文を書いた山田洋次監督の中にこんな言葉があった。
「自分の好き嫌いで語らず、いつも作家の側の物差しを探り当ててその物差しの尺度で批評するひとだった。僕は、ルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」はあまり好きではなかったが、淀川さんからその良さを説明されてあらためて、良いと思うようになった。」というくだりがあった。
ジイにとっても「ベニスに死す」はよくわからない映画だった。淀川氏の「ベニス評」とはどのようなものであったのか、聞きたい衝動にかられた。
亡くなって22年になる。
映画を愛人とし愛する人からすべてをもらい、愛人に抱かれていなければ生きられないほど体の中は純粋なる映画の血しか流れていない異人だった。