桜咲く “ 入学式 ”
Vol.2-3.31-442 桜咲く “ 入学式 ”
2021.3.31
卒業式が終わって、桜、満開の中での入学式である。
かつて学校の式典が国旗・国歌で大いに揺れた。国家でありながら国の象徴で揺れ動くとは何とも奇妙な国である。その経緯は一旦置くとして。
平成13年(2001)3月28日、20年前の産経新聞「産経抄」である。
『東京都品川区の若月秀夫教育長が「小、中学校の卒業式などで国歌斉唱の際、起立しない来賓は招待しない」方針を表明したと言うのである。
品川区の議会答弁で明らかにしたもので、それに対し野党議員らは「国旗・国歌法制定時も強制しないとされているのに、排除していいのか」と反発した。
それを伝えた新聞も「入学式での対応があらためて問題になりそうだ」(朝日)などと報じている。
そういってあてこする新聞もあるから念のために書くが、「起立しない来賓はお断り」を表明した教育長答弁は当然すぎるほど当然であり、全く正しい。
こいうご時世だからあえて立派だと言ってもいいだろう。児童や生徒への礼節の教育からいっても当たり前である。
国旗の掲揚や国歌の斉唱に起立もしない来賓を招いて、子供たちが外国でそのような態度をとったらどうなるか。国際的なマナーもルールもわきまえぬ人間として非難され、批判される。恥も礼儀も知らぬ日本人をつくることになるだろう。
亡くなった評論家・福田恒存氏にこういう文章があった。「国旗はその国の象徴なのである。さういふ国旗の観念が日本人に無いのは、国旗に己の国家の象徴を見るといふ近代国家の観念が日本人に無いからに他ならない」(日本への遺書)
戦後の学校は、せっせと自分の国を忘れさせる教育をしてきた。その結果、心のよりどころを(=日本人であること)を失った日本人をつくってきた。
国際社会で日本人が信頼されていないのは、戦争の反省が足りないからではない。母国への愛情と尊敬を持っていないからである。』
という内容であるが、まだ学校現場で国旗・国歌で揺れていた時期である。
同じ時期に曽野綾子氏は「入学式」というコラムを書いている。
その要旨は、或る学校の校長が、入学式の式次第に「国旗を掲揚し、国歌を歌う」ことにすると言い、それを皆が無言で承認したという。
ところが、その「無言」には「妨害する者は処分する」という文言があったから従わざるを得なかったというのだ。
これに憤慨した学校職員が朝日新聞に投稿
<学校は、子供たちを次の主権者として育てる場であり、民主主義を学ぶ場だ。「命令」と「処分」による学校運営からは民主主義が育つはずがない>という内容で投書欄に掲載された。
その投書について曽野氏の論評である。
『・・・私はすべての地球上の国を見たわけではなく、109ヵ国に過ぎないが、何か行事がある度に、逆に、国旗がはためき、国歌が吹奏されない国を見たことがないのである。
世界の国の中にはいまだに
◆王室あり
◆専制的な色合いの強い大統領あり
◆党員が特権階級を造っている国あり
◆閣僚や官僚の根強い体質的汚職あり
◆内戦の殺し合いあり
◆武器を売って恥じない国あり
◆女性にベールをつけ続けさせている国あり
◆国家経済が全く破綻している国あり
だが、それでも国旗と国歌を否定しているところは一国もない』と論じた。
、、、もう、20年前の話だ。
最近の学校現場はとりたててニュースにならない。どうでもいいことと現場任せになっていたり、放置されていなければいいと思うが、最近の文科省の教科書対応などを見るとまったく心もとない。
先の短いジジイは足の先から頭のてっぺんまで日本人としての誇りを持っていたいと思う。
小・中・高、この多感な時期こそ、正しい国家観を身につけなければ世界で羽ばたく国際人にはなれない。間違っても顔のない日本人をつくってはならない。
桜の咲く季節になると特に気になってしまう。