台湾に生きた八田與一
Vol.2-5.11-483 八田與一
2021.5.11
「八田與一」この名前を何人の日本人が知っているであろうか。
台湾統治時代の50年間、台湾に貢献し、台湾人からも尊敬を集めた人間は数多くいる。桂太郎、乃木 希典、児玉源太郎、等々名を上げれば枚挙にいとまがないほどだが、その一人に八田與一がいる。
石川県に生まれた八田與一は東京帝大を卒業後、日本統治時代の台湾総督府で技師となり、1920年から当時最大の水利事業、烏山頭ダムを約10年かけて建設。農業用水路も整備し、不毛だった南部の嘉南平野を穀倉地帯に変えた。農民に感謝され、戦後は台湾の教科書にも取り上げられた。
その八田與一ダム着工100年式典が5月8日、蔡英文総統をはじめトップ3人が参列する中で行われた。
外国が関わる歴史イベントで、台湾政治トップ3の参列は極めて異例。台湾と日本はいかに深い絆で結ばれているかを示す事例である。
八田與一のエピソードは、作家・司馬遼太郎の「街道をゆくシリーズ40・台湾紀行」の中にも出てくる。
『銅像でみる八田與一は、あごの丈夫そうな、さらにはひたいの骨の硬そうな風貌をもっている。銅像は、作業ズボンをはき、腰をおろして現場を見つめている。視線の向こうに、かれが台湾人とともにつくった烏山頭の珊瑚潬の水がひろがっている。
烏山頭水庫に貯えられた水が、嘉南平野にくばられるのである。その巨大な水利構造について、謝新發氏は、万里の長城以上だという。嘉南平野を縦横にめぐっている水路の長さは1万6000キロで、万里の長城は巨大とはいえ、ほぼ2700キロでしかない。』(台湾紀行)
この司馬遼太郎の台湾紀行の執筆に際し案内人を務めたのが蔡焜燦(さいこんさん)氏である。その蔡焜燦氏が2001年9月に上梓した「台湾人と日本精神」にも八田與一は登場する。
◆「台湾人と日本精神」(著者:蔡焜燦/小学館文庫)
・・・いまでは台湾最大の穀倉地帯として潤う台湾南部の嘉南平野一帯も、日本統治が始まった頃は一面不毛の大地だった。長い雨季には大地が水に浸り、乾季には水不足に悩まされ、穀物栽培にはまったく不向きな土地だった。
・・・アメリカをはじめ世界の水利事業に明るい八田は、洪水と旱魃を繰り返すこの嘉南平野を穀倉地帯に変えるには、大規模な灌漑施設を作る必要があると提唱し、華南平野開発計画をまとめ上げた。
・・・1920年治水工事は着工された。八田與一は家族を烏山頭に呼び寄せ、すべてをダム建設に捧げるつもりでこの一大事業に打ち込んだ。
そして、十年後、ついに悲願は成就したのである。
(その後八田與一はアメリカの潜水艦の攻撃にやられ、56歳で殉職してしまう)
その後戦争が終わり、日本人が本国へ引き上げをはじめていた頃の1945年9月1日未明、八田夫人・外代樹(とよき)は遺書を残して、夫が精魂込めて造りあげた烏山頭ダムの放水路に身を投じたのである。・・・(「台湾人と日本精神」より)
夫が命をかけた台湾・烏山頭ダムに身を投じた夫人の気持ちが痛いほどわかる。與一が家族を呼び寄せた時から、台湾に骨をうずめる覚悟で水利事業に取り組んだと思われる。夫人にとってもダムそのものが與一自身であり最後まで寄り添うことで本望を遂げられたのではないか。
銅像を見ただけで、その飾り気のない一途で優しい人柄と共に決してくじけない強さも合わせて感じる。
戦時中のこのような話が何故台湾の教科書に載って日本の教科書に載らないのだろう。<台湾統治=悪い日本人>はGHQの洗脳によって日本人の脳に染みついてしまった。
台湾の人は八田與一の功績を讃え毎年感謝祭を開いている。もちろん台湾人によって二人の墓も建てられた。
「台湾人と日本精神」の著者・蔡焜燦氏は
「戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批判する言論が幅を利かせていると聞く。が、日本による統治によって、いかに多くの台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞くに耐えない」と日本を慮った。
その蔡焜燦さんも4年前90歳でこの世を去ってしまった。また一人親日家を亡くした。
台湾は今、中国の脅威に晒されている。台湾有事は日本の有事である。今度こそ見捨ててはならない。