沖縄戦76年
Vol.2-8.14-578 沖縄戦76年
2021.8.14
沖縄をイメージするとき。南国、青い海、米軍基地、とともに、大東亜戦争末期の激戦地である。広島・長崎と並び、反戦・平和を希求する気持ちは特別である。
県外の多くの若者は、青い海・南国のリゾート地のイメージであろう。実態もそうあってほしいがどうもジイのイメージは辺野古反対、反戦・反日活動家が先立つ。
6月、産経新聞に掲載された「沖縄戦76年・荊の伝承」は、沖縄戦が今に残した痕跡をたどる3回の沖縄シリーズだった。
その内容の一部を辿ってみる。
沖縄に住む上原正稔さん78才は地元では知られるノンフィクション作家のような存在だった。仲間と一緒に米軍から沖縄戦の記録フィルムを募金で買い取り、上映会を開くなど沖縄の戦争実相を伝える大きな役割を担ってきた。
ところが、反戦運動が広がりを見せる中、フィルムを反戦運動に利用する動きでてきた。フィルムの中に出てくる白旗を持つ少女と日本兵の映像を、「卑怯な日本兵」と事実を曲げるなど、フィルムは反戦の道具として変質した。
上原氏はそれでも沖縄戦の事実伝承に力を注ぐが、沖縄タイムス、琉球新報など大手2氏が革新系。集団自決の軍命令を否定すると一気に仕事が激減したという。
、、、これが沖縄の現実である。今も大して変わらないと思うが。
つい最近の教科書ですら「戦没学徒の顕彰碑」と紹介したことが「戦争を美化する用語」として批判が起き、自主訂正に追い込まれた。それは一例で「国難に殉じた戦没者」、「英霊・散華・勇戦」なども使えない。この傾向は収まるどころかさらに強くなっているという。
しかし「遺族としては、戦没者は郷土を守るために懸命に戦ったのだ、その死は決して無駄ではなかったと思いたい。『英霊』や『散華』の言葉にはそうした思いが込められている」と語る遺族もいる。
実際、沖縄県内には戦没学徒らを追悼する碑や塔が数十カ所ある。
「一中健児之塔」の案内板には
『鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬、糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬り込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した・・・』、、、と書かれている。
これを「顕彰」とせず、とは信じられないが、新聞2大紙が革新系である沖縄では、多様な思想が入る余地はない。ある意味、日本で最も言論が封鎖された地域である。
涙を誘ったのは当時5歳だった女の子、岡出とよこちゃんの思い出である。両親は伊勢市で特攻隊員用の「攻空寮」という民間の寮を経営していた。
5歳の岡出さんは特攻隊員に可愛がられたという。空襲警報のお稽古に、目と耳を押さえてじっとしていると「とよこちゃん、上手だね」とほめてくれたそうだ。その特攻隊員がどんな任務で何をする人かも知らない岡出さん。沖縄に飛び立つ朝、凛々しい姿で玄関に立っていた。
両親と番頭、女中ら寮の全員が並び、「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。
すると兵隊さんが、つかつかと岡出さんに歩み寄り、小さな身体を抱き上げ、ぐっと抱きしめ、さらに力を込めてぐっと抱きしめた。
痛かった。でも声を出してはならないと思い、必死に我慢した。その耳元で、兵隊さんが言った。
「とよ子ちゃん、行ってくるよ」
兵隊さんはなぜ、あんなに強く抱きしめたのかー。それを考えると胸が張り裂けそうになる。
時が流れ、50歳の頃、沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘を尋ねた時のことだ。ふいに両腕が痛んだ。
兵隊さんはここにいたんだー、、、だから帰ってこなかったんだー。
岡出さんは両腕をかかえて嗚咽した。、、、そう記述されている。
戦争は悲惨である。しかし、事実を曲げてまで反戦運動をする人の心の風景とはどんなものだろう。どの兵隊も国民も一緒になって国を守るために戦ったのである。
沖縄大の宮城能彦教授は
「顕彰と、戦争を賛美することは全く違う」とし、「沖縄戦で多くの学徒兵らが、国のためにと思い必死に戦ったのは事実だ。それを顕彰しない国や社会に将来はない」
まさに、その通りだ。
令和元年10月岡出さんは沖縄県護国神社を参拝したとき、境内の特攻隊員のブロンズ像を見つけて駆け寄り、「兵隊さん、兵隊さん、とよ子です、とよ子です」と人目もはばからず像をさすり呼びかけたという。
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