シベリア抑留

日本,雑記

Vol.2-8.16-580   シベリア抑留
2021.8.16

「シベリア抑留」よく耳にする言葉である。

終戦後、日本に帰れると思った兵士約56万人に嘘を言って強引にシベリアへ連行した。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えず、鉄道敷設工事、斧を手に原生林伐採。過酷で非人道的な扱いを強いて最長11年、5万3千人が寒さと飢えで命を落とした、ソ連の許されざる犯罪行為である。

これこそが戦争犯罪の最たるものではないか。東京裁判では勝手にA級・B級・C級と罪名を創作し、有無を言わさず死刑にしといて、このソ連の犯罪は素通りである。

日露戦争で屈辱の敗戦をした復讐だったのか、ソ連の非人道的やり方が11年にも及んだこと自体が信じられないが、その間、人権問題にならなかったことが不思議である。この実態についてジイは少々勉強不足である。

このことに対して日本がソ連に賠償を申し出たとかの話を聞いたこともない。

韓国のように戦時下において募集された労働者を強制されただの、差別されだのといいながら、訴訟を起して金を取ろうとするのとは大違いの日本の無関心である。

シベリア抑留問題は、その後、収集遺骨の取り違えや、ソ連の非協力的かつ杜撰な取り扱いを見るにつけ、現代においてなお、軍事力のない国への軽視は昔となんら変わらない。

産経新聞にシベリア抑留された荒木兵士の体験談があった。

荒木氏は満州の守備を担当し、関東軍の機関銃中隊に所属していた。低空で攻撃してくる敵機に必死に応戦したというが「やられてたまるか」の一念だったと述懐している。

終戦が告げられ、荒木さんらは8月19日武装解除した。牡丹江までの約250kmを徒歩で移動。ソ連兵から「東京に帰るぞ」といわれその気になっていた」ところが行きついたのはシベリアの捕虜収容所だった。

鉄道の敷設工事に投入され、おのを手に原生林を切り開き、シャベルで土を掘り起こす。黒パン一切れと味のないスープで飢えをしのぐ厳しい生活が待ち受けていた。

「動物のような扱われ方で、感情を捨てることに徹した」と荒木さんは話した。

耐え切れず逃走を図る仲間もいたが、成功したためしはなかった。飲み水を求めて雪を取りに言っただけで銃殺された日本兵もいたという。

シベリア以外にも敗戦直後の悲惨はあった。

昭和20年8月20日、戦争が終わった後の無防備の日本にソ連軍は樺太・真岡町への上陸を開始した。志願して職場に留まり、そのために追い詰められた女性交換手達の最期はあまりにも悲惨である。各地で市民が次々と殺害される状況を通信で知り、自らも青酸カリによる自決を選んだのだ。

この事実は戦後、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』で再現された通りで、残酷極まりないソ連の行いだった。

北海道北方4島を取られ、勝手に自国領とし、日本の漁師が領海侵犯したといい拿捕、多額の保釈金を取る。まるで強盗そのものが今も横行している。そんな関係でありながら、相手がちょっと甘い顔を見せると、日本は手をすり合わせて北島4島返還の話を持ち出す。いい加減目覚めたらどうかと思う。しかし、自由になった今、今度は自ら手足を縛り、野党の反対で防衛費すらままならない。この国は自国を守る意思さえ失くしたかに見える。

シベリアで亡くなって遺骨さえ未だ帰らない。

荒木さんは「戦後76年がたとうとする中、いまだ帰還できていない。非人道的な史実を知ってもらいたい」といい、高齢にもかかわらず、遺骨収集にも加わり、過酷な体験を講演などで語り継ぐ。

「生き残った一人としてそれが使命ですから」という。97歳の荒木さんを支えるのは、当時の人が持ち合わせていた同胞と言う感情と戦友愛である。

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Posted by 秀木石