国語改革
Vol.2-8.21-585 国語改革
2021.8.21
2022年度から、高校の国語教科書が「新要領」に基づいて大きく変わるようだ。
“ 国語改革 ” などと聞くとジイなどは文科省の左傾化によって国語軽視に進むのではないかと不安になる。
何がどう変わったのか、今は知る由もないが、文芸評論家であり国語教師でもある前田嘉則氏によれば、国語を「現代文」と「古典」から、「論理」と「文学」に分けるということらしい。
詳細は不明だが、今までは話し合いや論述など『話すこと、聞くこと』『書くこと』の領域の学習が十分行われていなかったということが改訂の理由だ。
つまり、「話す、聞く、書く」に重点が置かれ、読むは既習のこととして重視されないということだ。
以前の要領では
「国語を的確に理解し、適切に表現する能力を身につけさせるとともに、思考力を伸ばし心情豊かにし、言語感覚を磨き、言語文化に対する関心を深め、国語を尊重してその向上を図る態度を育てる」とある。
新要領は「言葉に学ぶ」ではなく「言葉を使う」態度を主眼においている。よって「知識及び技能の習得と思考力、判断力、表現力」の育成に重点が置かれる。
これらの改革の背景には当然政治家の意見もあるが、経済界からの影響もあるようだ。今回は「話す、聞く、書く」が十分でなく「情報活用能力に乏しい」という経済界の考えが反映されたのであろうか。
あくまでも実践を優先する国語に舵を切ったということか。以前、数学者の藤原正彦氏は「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数」と国語の重要性を訴え、特に読むことを唱え続けた。それとは逆路線になる。
前田氏は今回の改定は「読むこと」への浅薄な理解だと指摘する。
今から50年前、外山滋比古は「近代読者論」で『読むことが受動的模倣的活動であるかのように感じられているところに、「読む」機能のゆがみがあり、より高度なリーディングを妨げている原因があるように思われる』の文章を引いて「新要領」への疑問を呈した。
私たちはいかに一つの文章を深く読むか、そしてその読みの深さを共有できるのかの方に魅力を感じる。読みと一口に言っても音読、黙読、読書、読解。その読みにも感情を入れる場合もあれば、淡々と読む場合もある。
イタリアのある俳優はレストランのメニュー表を読んで周囲の人に涙を流させるほどの感動を与えたと言う。それほどに「読む」の奥行きは深い。と、実例を挙げて読むことが軽視される方向に行くことを心配した。
「新要領」は、「二つの求人票をよく読み、どちらの企業に就職したいか、その理由も含めて話し合ってみよう」などといういかにも実用を重視した国語である。
前田氏は、学校教育の国語とは、「読む」に徹して「読む」を深めて、そして「書き」「話す」と言う順序になるべきだ。と、それは安易な実用に回収されない倫理的な営みである。と確信をもって実用へ走る国語教育を戒めている。
ロシアの作家チェーホフは「書物の新しい頁を一頁、一頁読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく」という言葉を残した。
日本国を消そうという壮大な企みが動いていなければいいがと余計な心配をした。
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