幼なじみの死
Vol.2-8.29-593 幼なじみの死
2021.8.29
昨夜、幼なじみの訃報が入った。
生まれた時から中学を卒業するまで、山に囲まれた小さな村で育った幼なじみがまた一人亡くなった。
この年になれば当然のことだが、毎年一人二人と訃報が入る。そのたびに昭和の熱い太陽の下、真っ黒に日焼けした子供時代が蘇ってくる。
保育園はお寺だった。境内が園児の遊び場、年長の年に保育園ができて移った。
保育園の前が小学校、校庭を挟んで中学校と3つが一列に並んだ。
小・中学校のグランドはほぼ共有。向かい合って建っていたため、6:4の割合で使っていた。
グランドを囲むように校舎、体育館、給食室、校舎がありどちらへも1本の廊下で繋がっていた。給食のおばさんは皆、地元のお母さんが担った。
「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった、」で始まる川端康成の小説ではないが、わが村と隣町の間には小高い山と長い峠がある。まさに「トンネルを抜けるとそこには小さな村だった」になる。
昔は山間の狭い道路しかなかったが山を切り開き国道ができたのが小学校の頃だ。
その道路を車に乗って長い峠の頂上から下りに入ると、眼下に山で囲まれたすり鉢のように村が見える。
冬になると、雪に悩まされた。この長い峠に立ち往生し、何日も車が止まったことがあった。
小さい頃は一度大雪が降ると根雪になった。小さな道路の真ん中が踏み固められ通学路になる。1m程度の雪はざらに降る時代だった。
そんな村だ、山間の奥の子供たちは小学校3年までは分校に通った。4年生になると本校舎に移り生徒が増えたのを覚えている。今では雪も少なくなりいつの頃か分校はなくなった。
時は流れ、少子高齢化で小中学校が1つの校舎になり、その数学年を一緒に授業しているようなことを聞いたのは何年前だろうか。そしてついにこの春、小・中学校が148年の歴史に幕を下ろした。
思えば、校舎を中心にまわりの田んぼに畑、山・川、神社、寺すべてが遊び場だった。子供の頃は山に囲まれた村からほとんど出ることはなかった。村全体が家族のような温かみがあった。
48人の幼なじみ。中学を出て、ちりぢりになったが同窓会はよく開いた。57年の時の流れ、ぼつぼつと訃報が届くようになりすでに6人を数える。最近はそのたびに田舎での思い出が蘇る。
密度の濃い18年間。ただ、ただ、野山を駆け巡った。家の中で遊ぶことはなかった。夏休みは川で泳ぎ魚やうなぎをとった、山の探検、野球、メンコ、釘指し、缶けり、冬になれば皆自前のそりづくり、ものを買う発想はなかった。竹や木はそこらじゅうにあった。雪の土俵で相撲を取った。
寺は村の行事の中心でもあった。春には甘茶も振る舞われた。お寺の中に舞台が作られ、子供たちの劇や芸能好きの女性による踊りや歌が奉納された。ジイも、寺の方丈さんの「脚本・演出」で寺発祥劇を演じた。未だにその台詞の一部を覚えている。
夏の行事のメインは地蔵盆だった。子供たちは各町内別にお地蔵さんの裏にむしろで部屋をつくり、そこをアジトにした。町内の母親たちが作ってくれたおにぎりやスイカを食べながら、お地蔵さんの飾りを競ったり、夜には空き缶で手製の手元灯を作り、隣の地蔵飾りを偵察に行ったりしたものだ。
秋の運動会は小中合同、稲刈りが終わった頃、村人全員が参加、大人も巻き込んだ町別対抗リレーは盛り上がった。
今、思えば1年が実に楽しかった。田植えに始まり、夏は盆踊りに、校舎の壁に幕を張った映画鑑賞。秋には稲刈り、もみ干し、麦踏みに、木お越し、冬の干し柿づくり、雪の中の小さな小屋ではじいさんばあさんが炭火を囲んで藁を打って、縄や藁草履を作っているのを傍で見ながらつくった。婆さんが雪の田んぼで大きなお尻をまくって豪快におしっこをしていたのを思い出す。自然と遊ぶ以外に何もなかった昭和の田舎の風景だ。
それだけではない。芝居小屋があって、年に何回か旅役者が来た。多くの村人が見に行った。板張りの上に座布団持ち込みの客席、後方の一段高い席は若者が陣取った。旅役者を泊まらせる旅籠もあり、旅籠がいっぱいの時、我が家に役者が一人泊まったこともあった。
定期的に、プロ4人ほどの獅子舞も必ずやってきた。家々を回りながら、獅子舞を踊り、笛や太鼓など芸をしながら家々からお米やいくらかの心付けをいただき、無病息災、厄払いなどを行っていた。子供の頃はついて回った。たまに小刀を高く舞い上げたりの芸には目を見張ったものだ。芸人たちも毎年同じ顔ぶれで親しみ深かった。
今ではすっかりなくなった「火の番」で拍子木をたたきながらの夜回り、冬の夜の托鉢。思い出はつきない。
これから秋、わが村の稲刈りは早い。9月中旬には始まる。
友だちの訃報が届くたびに、わが心の昭和が蘇っては消えて行く。寂しいがそういう歳になったのだと実感する。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません