小説を映画として読む

日本,,雑記,吉永小百合,小説,映画,東京簡裁,殺人犯,蛭間隆也,見城徹,高倉健

Vol.2-9.3-598   小説を映画として読む
2021.9.3

<二人の嘘>  著者:一零ライオン

将来を嘱望される美貌の女性判事と、命がけの偽証で未来を棒に振った殺人犯。
恋で終われば、この悲劇は起きなかった。

出会いは、法廷。10年に一人と言われる天才女性裁判官が裁き、5万円を盗んで雇い主を殺した男が裁かれる。
出所してきた男が訪れるのは、裁判所の門前。
運命の糸に手繰り寄せられるように、再び出会う二人。
彼のために何をすればいいのか? 彼女のために何ができるか? 
相手の幸せをだけを考えて生きる二人。
悲劇に向かっているはずなのに、何故か不思議な幸福感に包まれる。
涙がとまらない。微笑みも止まらない。
切なくて、苦しくて、そして幸せでーーー。
読み終わった本を、抱きしめた。

人を殺した男。それを裁いた女。社会の片隅で黙々と生きる元服役囚が封じ込めた人生。感情を殺して生きるエリート美人判事が忘れようとした人生。
二つの人生が宿命のように交錯した時、圧倒的な小説世界が動き始める。
息を詰め、胸を掻きむしり、嗚咽しながら一気に読み終った。
こんな風に愛したかった。こんな風に愛されたかった。
40代の高倉健と30代の吉永小百合しか演じることが出来ない男と女―――。
だから映画化は不可能だ。
何というミステリー!―――編集者 見城徹

以上が、本を売らんとするための新聞広告だ。
見城徹氏にまんまと騙された。騙されたが失礼ならば、上手く乗せられ、いとも簡単に2000円を巻き上げられたということだ。まあ2000円で1本のサスペンス映画と小説を楽しんだと思えば安いのかもしれない。

著者・一雫ライオン氏は小説家というより脚本家である。“ 二人の嘘 ” を読んでるとまるで映画を見ているような錯覚にとらわれてしまうほど、場面が克明に浮かんでくる。ただし、それは高倉健演じる蛭間隆也が出てきてからだ。

見城氏の「40代の高倉健と30代の吉永小百合しか演じることが出来ない男と女」というセールストークに騙されて買ったのだが、主人公の一人蛭間隆也が出てきたとたんに小説は映像に切り替わった。

しかも蛭間隆也が最初に登場する、丸ノ内線・霞ヶ関駅A1出口はジイが何度も通った出口だ。

高倉健の言葉と演技が台本通りに映像として浮かび、映画を見ながら読んでいるような錯覚にとらわれてしまう。ここは見城氏にしてやられてと思った。

作者は最初から高倉健を想像して小説を書いたとは明確にしていないが、ほとんどそのもので、高倉健が出てくる場面は実にリアリティをもって読み進んでしまった。

ただ、弁護士片陵礼子は吉永小百合ではない。ここは見城氏のミスである。現代で言えば、北川景子、昔で言えば、30代の若尾文子か岩下志麻でなかろうか。吉永小百合ではなかなか冷徹な表情は想像できない。

映像に切り替わってから、礼子、夫、家庭環境などすべてが頭の中で映像に吹き替えられてしまうのだ。

見城氏のいう「読み終わった本を、抱きしめた」り、「息を詰め、胸を掻きむしり、嗚咽」するなどは商売用トークで少々オーバーだが、リアルな高倉健にはまいった。

先入観を持たせるということは、はまった時は素晴らしいが、逆に違和感を持つとなかなか小説に入れないのではないかとも思う。見城氏は賭けに出たのではないか。

映画の脚本なら素晴らしい。ただ小説として注文をつけるなら、片陵礼子が蛭間隆也に惹かれて行く過程、興味から愛に変わる瞬間をリアリティをもった丁寧さが欲しかった。あとはエンディングにもうひと工夫というところか。

ジイにとって東京簡裁は実際に原告として何度も裁判を経験した場所である。しかし、東京地裁には役職上立てなかったが、何回か弁護士に付き添った経験があり小説自体も身近に感じた。被告人・蛭間隆也が立った丸ノ内線A1出口も、何度も通った場所で懐かしかった。そんなこともこの小説は思い出させてくれた。

いずれにしても、見城氏に植えつけられた高倉健で、小説を映画として見てしまうという奇妙な体験をさせてもたった。

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