「民意」亡国論
Vol.2-12.21-707 「民意」亡国論
2021.12.21
文藝春秋・新年特別号に京都大学名誉教授・佐伯啓思氏が「民意亡国論」なる論説があった。副題に “「国民の意思」の絶対化が招くこの国の危機 ” とある。
ジイも難しくてなかなか理解できないが、要点を拾ってみたい。
『・・・今日「日本を一つの亡霊がうろついている。民意という亡霊が』・・・・今日、われわれにとりついている亡霊は、われわれを破滅へと導くかもしれない。
・・・
新聞、テレビ等のマスメディアを通して、連日、この言葉によって視覚聴覚を刺激されておれば、いつのまにか、「民意」やら「国民の意思」なるものが本当に臨在しているかのように思われてくる。
・・・一例をあげれば、2021年10月末の総選挙で、自民党も立憲民主党も議席を減らした。そこでたとえば朝日新聞は社説で次のようなことを書いていた。「甘利幹事長の小選挙区での落選は、自民一強体制への批判という民意の表明である」と。また、毎日新聞の論説には次のようにある。「与党も野党も決定的に勝たせない。とうのが民意である」と。
どうみても恣意的というほかない。「民意」の便利使いである。自民党も立憲民主党も確かに議席を減らしたものの、その意味は全く違っていた。・・・・・
理由ははっきりしている。そこに「国民の意思」というものを読み込みたいのだ。「意思」とはやっかいな言葉である。強い信念や信条がそこには示されており、確固たるものが暗示されている。その結果「国民の意思」を人質にとれば、正当性が生まれる。
朝日は「民意」という言葉を無理やりに人質にとって、「自民一強体制」への批判を正当化しようとし、毎日は与党の勝利を認めまいとする。自らの主張を「民意」によって正当化しようとしているだけである。
今日の政治にあって「民意」は、通常、「世論」と同一視される。・・・・・「世論」が、時には、国民の明確な意思表示であることもないわけではないが、多くの場合、「世論」の中身はまったく不明であり、不定であり、不確かなものである。
・・・・・ところで、私が「民意」の危うさを問題にするのは、それこそがデモクラシーそのものに関わってくるからにほかならない。「民意」つまり「国民の意思」の実現こそがデモクラシーだとわれわれはみなしている。誰もが、デモクラシーとは「国民主権」であり、それがゆえに望ましいと考えている。
では改めてデモクラシーとは何なのであろうか。私は、それは選挙で選出された代表者による議論を経た上での政治的な意思決定の手続きである。そこに「主権」というような、無限定な強い意味を込める必要はない。ただ、この意思決定のルールが機能するには、それなりの前提がなければならない。・・・・・
「手続きの尊重」「自制と寛容」「共同の価値の尊重」である。
これに対し、「主権(国内における至高の権力)は、それが君主であれ市民であれ国民であれ、本質的には危険なものである。
にもかかわらず、戦後日本は、国民、あるいは市民に「主権者」の称号を与えた。「国民の意思は」は絶対化された。
・・・しかも、自由と平等の原則が保障する価値相対主義のおかげで、バラバラな意見がバラバラにに尊重されることになる。多事争論どころではない。ただただ百家争鳴である。
「主権者」は無条件で至高の権力を持てるわけではない。それは、その社会の成り立ち、歴史や習俗、それに継承された文化や国民精神などによって抑制されたものでなければならにのである。
・・・・・「主権」とは、ただ至高の権力を行使する権利ではなく、国や国民に対する大きな義務をも含んでいる。主権者は国益と同時に、歴史や文化の付託を受けた者であって、「民意」が意味を持つのは、このような条件のもとでのみなのである。
以上要旨を紹介したが、十分紹介しきれない。現代の病巣をあぶりだした論説である。
この度の眞子様と小室氏の結婚と「国民の意思」にも言及している。ジイはこの結婚の表層だけをみてモヤモヤしたものを内包していたが、佐伯氏の論説によってなるほどと腑に落ちた。
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