多様性の在り方
Vol.3.01.24-741 多様性の在り方
2022.01.24
近年、多様性という言葉を聞かない日はない。
テレビもラジオも新聞も毎日、毎日、多様性、多様性、多様性、この2年少々、毎日のトップニュースが “ コロナ ” であったように、何かというと多様性を強調する。
そんなに多様性が今、疎外でもされているのであろうか。この多様性に刺激でも受けたのか、巨人・桑田真澄の子共さんで「マット」や、最近変身した「氷川きよし」などは自らの芸が追及した姿なのであろうか。多様性という言葉の洪水のお蔭で特に若い世代で許容されているが、そこに芸人としての高い精神性は感じられない。
あまりにも多く発言されるこの “ 多様性 ” 、ジイなどはちょっと違う方向へ導こうとする導火線ではないかと思ってしまうのは穿った見方であろうか。
例えば、
『 多様性 ⇒ 個性を大事にする ⇒ 男女の区別をしない ⇒ 同性婚を許容 ⇒ 夫婦別姓 ⇒ 家族制度解体 ⇒ 個人独立の戸籍の確立 ⇒ 歴史・伝統文化からかい離した新しい社会 』という帰結。
この多様性という言葉の裏に隠されたイデオロギーの行きつく先は情緒などの入る余地のない無味乾燥の世界である。
その多様性が “ ジェンダーフリー ” なる言葉が入ってきてからよからぬ方向にミスリードされているように思えてならない。
その多様性にからみ、昨日の新聞に、イスラム思想研究者・飯山陽氏のコラムがあった。
『昨年12月25日、毎日新聞はNHK紅白歌合戦について「近年、多様な性のあり方への意識の高まりなどもあり、男女対抗の形式は時代のずれも指摘されている』とし、
『男女二元論に当てはまらないアーティストがいることことを前提にしてほしい』
『そもそも性別で分ける必要はあるのか』
と言いながら、
『性別で分けない形を採用してふたを開けてみると出演者が男性ばかりとならないよう、ジェンダーバランスも考えていかねばならない』
男女を分けるなと言いながら、分けよという自己矛盾。
同じく朝日新聞もNHK紅白をとりあげ、
『・・・「性別二元論」を強化し、どちらにも当てはまらない性的少数者を締め出してしまうという問題点が指摘されている』と質問の体裁をとり二元論を否定している』
朝日・毎日は今に始まったことではないが、少数者に寄り添う体裁をとり、彼らを利用し自らのイデオロギーをひろめ、社会を変えようとしているだけ。
と飯山氏は指摘した。
それにしても朝日も毎日も、男女の枠組みの破壊は本当に「いいことだ」と思っているのであろうか。
世の中には、確かにいろんな人がいる。しかし、自らが住む国の、法律と道徳からはみ出ない範囲において、ゲイだろうが、ホモだろうがそれは多様性の中において認めるということで何ら問題はない。
何もかもフリーにしろ!というところに強引な価値観の強制がある。
昔は、男は男らしく、女は女らしくという言葉があった。それは時代が求めていたもので、決して差別をしていたわけではない。
現に建設現場などでは筋骨たくましい男の方が仕事ははるかにはかどるし、漁業なども決して女性を積極的に勧める現場ではない。それが差別とでもいうのだろうか。
女性であっても、建設現場で「とび職」をやりたい。あるいはダンプの運転手になりたい。と言えばその道を閉ざすことは差別である。チャンスは平等でなければならない。この点において現在の社会に差別があるとは思えない。
看護婦が女性で看護士は男性であったが、20年ほど前に男女平等の観点から統一された。看護婦と聞いただけで、柔らかい暖かさを感じ、逆に看護士と聞けば凛としたイメージを抱く。それのどこがいけないのかジイにはわからない。無味乾燥な世の中を作り出そうとしているように見える。
すべてに区別をするなというなら大相撲に女性が入ってもいいのだ。男女平等、胸も出し、まわしをつけて出れば大いに盛り上がるだろう。そこはダメだというなら “ 機会の平等 ” を与えないという意味で差別である。
昔、女性は子育て、男性は外へという固定観念が確かにあった。しかしそれとて “ 子育て ” こそ世の中で最も重要で大変な仕事だとジイなどは思う。
「末は、博士か大臣か」などと言われた時代があったが、その子の将来を決める “ 大事な幼少期を如何に育てるか ”、この最も大切な行為を今はまるで “ 子守 ” のように考えているのではないかと思う。
男性が外で稼ぐことで、母は子育てに集中できるのである。将来の科学者や医者、はたまた大臣を育てるのである。こどもは生まれて、低学年までの情操教育が如何に大事かということを考えれば、母は全身全霊をかけ子育てをしなければならない。
子は母の溢れんばかりの愛情と、父親の厳しい背中を見て育つのである。
昔の価値観が何から何まで時代遅れだと切って捨てるジイには納得できない。
ジェンダーフリーだのLGBTだの日本人は未だに “ 舶来 ” に弱い。
多様性はいい。しかし、差別も区別もわからず、過去よりも今が最善とする考えには歴史を軽んじる軽率さを感じる。過去の人間がすべて軽率に生きてきたのか。そうではない。この2000年を超える歴史の中で人間たちは必死に生きてきたのだ。源氏物語が今も生き続けているのは現代に通じているからである。
今生きる人間が果たして1000年後に何を残せるのか。戦後76年、今の日本の姿は、歴史から遠ざかった無惨な姿に思えてならない。
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