リアリティ
Vol.1-4.19-95 リアリティ
2020.04.19
ある雑誌に作家・沢木耕太郎氏が「駅ピアノ」というテレビ番組を取り上げていた。
世界各地の駅や空港ロビーに置いてある自由に引けるピアノだ。
誰でも弾ける「駅ピアノ」、そこには演出もなければ特別な観客がいるわけではない。弾きたいと思う人が自由気ままに弾くだけ。映像は極シンプル、ピアノと弾く人だけが映される。
しかし「彼らとピアノとの関わりがほんの少し語られるだけで、一つのドラマが浮かび上がってくる。」と沢木氏の言葉通りこの演出なき映像は雄弁である。
実はジイもこの番組はよく見る。
TV関係者も誰も出てこない。実にシンプルな映像だけだ。しかし、沢木氏の言葉にある通りほんの少しの言葉から彼が生きている世界が垣間見えて映像が一気に息ずく。
彼らが、ピアノと関わった経緯。今の生活。ピアノに対する思い。家庭環境。はては音楽論に及ぶこともあるが語る言葉は1分にも満たない。。
1時間ほどの番組だが、せいぜい10人程度が登場人物だ。映像には短い字幕が流れる。年齢も国籍もない。思い思いに鍵盤に手を置く。弾き終た後のほんの少し語りに、彼らの現実味のあるドラマを想像させる。
同じような番組で「世界ふれあい街歩き」という1時間番組がある。
世界の街をほんとにふらっと歩きながら、街行く人にちょっと声をかける程度、街の説明も極力シンプル。観光案内的でないのが良い。
自分が、ある町にふらっと立ち寄り、気になった店に入ったり、「何されているんですか?」と気になった人に声をかける程度。まさに異国に立ち寄り、散歩している感覚に近い。
世界遺産やこれを見よ!!などの押しつけがましさがなく、その土地に降り立った自分が歩いている感じである。
そこには例え地球の反対であっても、ごく普通に生きている人間の現実が、対して変わらないと実感する。日々の何気ない生活、生きている証、地球上のどこでも顔かたちの違いがあっても同じだと妙な親近感を覚える。
ジイはそれほど、外国へ行きたいとは思わないが、もし行くとしたら、都会から離れた小さな町をぶらっと歩いてそこに住む人の生活感あふれる日常に触れてみたいと思う。
外国を異国という表現があるように、何もかも違うという先入観を持つ。確かに国が歩んだ歴史と環境の違いによる考え方の根本的な違いはあるのだろうが、ありふれた日常に触れると、日々思うことや、生活をして行く上での営みに大きな差はないと実感する。
最近とみにリアリティにこだわる様になった。
そんな意味で、ドキュメンタリー番組イタリアの「ちいさな村の物語」などもその類で気に入っている。
かと言って映画やドラマは見ないかというと、そうでもない。
ジジイになると少々厄介で頑固でうるさくなる。
ガキタレの番組や脚本がしっかりしていない番組は見る気もしない。
歳をとってくると昔の思い出に生きるというが、そろそろその域に達しつつある。
新しいものを吸収し、消化する体力もなくなったのだろうか。
思い出に浸るか、リアリティの中にわずかな感動と刺激で生きているのかもしれない。
しかし、つい最近の新聞記事の中に、気に入ったある実業家の言葉があった。
「真剣に、精一杯」この言葉には己の実力の範囲内でという意味がある。
誰かと比較されないところで、これならジジイでも大丈夫かと思えた。
だから、今日から、「満身の力をこめて、真剣に精一杯」生きようと思う。
ただ、ジジイになると昔のことは良く覚えているが、昨日、今日のことを思い出せない。
果たして明日覚えているか自信がない。これが正にリアリティある現実だ。