「外交は対話」という民主国家の理想論

世界,日本,雑記

Vol.3-12.6-1057  「外交は対話」という民主国家の理想

2022.12.06

外交とは何とも難しい。

国の歴史も違えば、これまで生きてきた環境も違う。何から何まで異なる国家同士が打ち解けるというのは至難の業である。ましてや国家体制が違えば水と油。

何か事が起きた時、「話せばわかる」というのはあまりにも乱暴な話だ。そんな簡単なものではない。「話せばわかる」という論理の主は、そういう世界で生きてきた人間の発想である。独裁国家や一党支配の中での論理はまた違うだろう。「話せばわかる」は自由民主主義国家の常識を前提としているところですでに認識破綻、独りよがりであることを理解すべしだ。

インド・モディ首相が示した、今の時代は “ 戦争の時代ではない ” という世界認識は、先進国の共通認識と理解していたが、国連常任理事国・ロシアは違ったのである。

ただ、 “ 戦争の時代ではない ” という時代認識にズレがあったとしても、ロシアのウクライナ侵攻は、「正義の戦争であった」と世界のどこの国が理解を示すのか。

世界の進言にも耳を傾けず、ウクライナ侵攻を強行したロシアが正当化される理由はない。

ところが、おかしいことに戦争の長期化にともない、やおらおかしな論理を振り回して来る輩がいる。侵略してきた相手が悪いのはわかっているにもかかわらず、時間の長期化によって、解決できない原因をあたかも被害者にもあるかのごとく、目くらましのような論法で焦点をぼかす企てに出くわす。

先日、イスラム思想研究者・飯山陽氏のコラムに接しそんなことを思った。

~ 空疎な理想論で誤魔化す朝日」~(産経新聞12.4)

朝日新聞は11月4日付の社説「ロシアの戦争 市民の命『人質』許さぬ」で、ロシアがウクライナからの食料輸出に関する国際合意の停止を発表したことを批判した。
翌5日付の社説「南北応酬 力の対抗に歯止めを」では、北朝鮮と韓国が「お互いが挑発に乗って強硬な対抗措置で返せば、本格的な軍事衝突を招きかねない」と批判した。

両者は、問題解決の方法を「外交」「対話」とし、「力」を否定している点で共通している。

4日付の社説では当該合意について「交戦中のウクライナとロシアがお互いに交渉を拒むなか、仲介者(国連とトルコ)の努力と工夫で膠着を打開した貴重な事例であり、将来の停戦交渉に向けたモデルにもなり得る」と称賛し、「脅しに屈せず、粘り強く働きかけて、譲歩を引き出す。たとえ戦争中であっても外交が力を発揮する、その重要な前例としたい」と述べた。

朝日の主張は、仲介者がロシアの脅しに屈せず粘り強く働きかける努力と工夫をすれば停戦可能というものだ。今も停戦できないでいるのは外部の努力と工夫が足りないからだということになる。

しかし停戦できないのはロシアが撤退しないからに他ならない。ウクライナ側は「力」で応酬しなければたちまち征服されてしまう。それを否定するということはすなわち、さっさと降伏し征服されればよし、と言っているに等しい。

5日付の社説でも、「力と力」を競うことを「愚かなふるまい」と否定し、「米韓と日本は、北朝鮮の責任を厳しく問うと同時に、対話に導き出す手立ても尽くす必要がある」と述べている。こちらも要するに、北朝鮮を対話に導きだせていない米韓、それに日本の努力が足りないということになっている。

外交と対話だけを紛争解決の手段とし、武力をあくまでも否定する「平和主義」は正しく理想的であるように見えて、実は武力行使した側の罪から目をそらし、責任の所在を曖昧にする役割を果たしている。加えて、武力行使された側が応戦したからこそ状況が悪化したかのように印象付け、武力行使された側と第三者が武力行使した側を追いつめたからいけないのだと錯覚させる効果もある。

避難されるべきはウクライナに軍事侵攻したロシアであり、ミサイルを撃ち込んでいる北朝鮮である。
朝日の社説は、この現実を空疎な理想論で誤魔化す詭弁だ。かような詭弁によって、国際法を順守する自由民主主義国家という日本の基本姿勢を揺るがされてはならない。

と結んでいる。

この戦争が始まって以来、さまざまな意見があったが、飯山氏の指摘した論法に通じる似通った意見が多々あった。

◆「先ずは命を大事にしろ、命さえあればいつか何とかなる」まずは降伏して、反撃のチャンスを待てという論だ。ウクライナをバカにした話だ。ウクライナが命をかけて戦っている理由を考えない侮辱的発言だ。何百年もの歴史の中、リトアニア、ポーランド、ソ連、ロシアと多くの国に支配され、屈辱的歴史を歩んできたのだ、ソ連崩壊と共に1991年やっと独立にこぎつけた。この独立と自由を「手放せ」とはウクライナの歴史を知れば、口を避けても言えるものではない。

ゼレンスキー以下全国民の結束の固さは、この自由民主主義が何百年という屈辱と、軽んじられてきた命を考えれば、命に対する考え方が根本的に違う。戦争が始まって以来10ヶ月、一歩も引く気配を感じさせない毅然とした発言は、国民の揺るぎない意思がバックグランドとしてあるからである。その思いをくみ取ることなく軽々な発言には怒りさえ覚える。

日本のように2000年以上も外敵に襲われず、農耕民族として平和な暮らしをした民族など、地球上に日本だけである。極東と言われあまりにも遠く離れているという認識で手つかずにあった島国「日本」、環境にも恵まれたのである。

ヨーロッパも北米も戦争の歴史。アフリカ、東南アジアも植民地支配の歴史である。万世一系で126代の天皇が連綿として日本の歴史を作ってきたのは奇跡である。この平和な海洋に守られた遠い国であったことも幸いした。

日本国民の穏やかな性格は、この平和な日本の成り立ちと無関係ではない。そんな血が2000年以上にわたって流れている幸せな国なのである。

しかし、いざという時の団結力は世界に類を見ない強さを発揮する。今時こんなことを言うとお叱りを受けるかもしれないが、中東の過激な戦士ですら日本の特攻隊に敬意を表するのである。日露戦争で世界、特にアジア人を驚かし、勇気づけたのもその一つである。しかし、今日に至っては、大東亜戦争の敗戦で、GHQに骨抜きにされてしまった日本。今では、“ 日本の形 ” を忘れた日本が今にある。ジイには、輝かしい日本の歴史が泣いているように見える。

飯山陽氏が論じた朝日の記事には、寂しさと悲しさと、戦後、日本の歴史を断ち切り、今尚その残滓に生きる姿を見るようだ。

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