安楽死と尊厳死

日本,雑記

Vol.1-7.25-193   安楽死と尊厳死
2020.07.25

『安楽死』なかなか難しい問題である。

また痛ましい事件が起こった。

ALSの女性患者に依頼されたとして、嘱託殺人容疑で二人の医師が逮捕された。
今回容疑者とされた二人については、誠実な医師とは若干異質性を感じるが、依頼者の女性からすれば、藁をにもすがるつもりで見つけた天使であったかもしれないと思うと、心境は複雑である。

この度の事件で多くの人が我が身において考えた人も多かろうと思う。何年か前にも同じような事件があった。

ニュース記事には、この「安楽死」問題について一向に議論が進んでないとあった。

確かに、難しいというか軽々しくは語れないのかもしれない。しかし、かと言ってこの難題を放置すれば、また同じような事件が起きる可能性は大いにある。

己がもし、彼女のような状況に置かれたら、できることなら同じように「楽にしてほしい」と願うに違いないと思うからだ。

家族には、もし自分が生死に直面したとき
①癌にかかった時 → 治療不要
②不治の病にかかった時 → 痛みをやわらげる措置以外手当不要
③植物人間になった時 → 延命措置不要
④安楽死可能であれば → 即適用希望
⑤尊厳死 → 躊躇なく希望

これは自分がすでに高齢の状態であるが故に、残された家族が医師から相談を受けた時に悩まないようにすでにジイが遺言に書いたものである。

己が元気で頭脳明晰?なうちに書くこと、伝えることが必要だと考える。口頭でもすでに伝えた。

しかし、実際に生死の判断に関わる治療方法の選択を迫られた時、家族は大いに悩むことだろう。
すぐに回答せず、一旦は留保するに違いない。
即座に答えられるとすれば、切に延命措置を希望する場合に限られよう。

事の重大さから、何日かの考察の時間をおいて、その結論に至る心の苦しみを充分に抱きながら心痛な面持ちで医師に伝えることになると推察する。

人の命の選別を、例え家族であろうと、あるいは事前にその措置を聞かされていたにしても、決断を下す数日の時間は人間の心を落ち着かせるために必要なもののように思う。

それが、人間であり、決定者の心の整理の時間となるはずである。

安楽死につき、欧米の事情を医学博士の美馬達哉教授は、次のように語っている。

「たしかに欧米の一部の国では、医師が致死薬を患者の体内に注入する『積極的安楽死』や、医師から処方された致死薬を患者本人が服用して自殺する『自死介助』が認められている。

ほとんどの場合、患者の痛みが耐え難く回復の見込みがないこと、かつ患者本人の明確な意思に基づくことが要件です。死期の切迫は絶対の要件ではない。

オランダやベルギーでは、肉体的苦痛だけでなく精神的苦痛による安楽死、さらには未成年についても認められています。極端なケースとしては、高齢になることを苦にした安楽死まで論じている国もある。
実施件数も決して少なくない。たとえば2018年のオランダでは、6126人が安楽死で亡くなった。国内の全死亡者のうち4%に当たり、25人に1人という割合だ。

背景にあるのは『自分の人生のあり方は自分で決めたい』という、自己決定に対する非常に強いこだわりです」

ということである。

欧米の安楽死という制度は、徹底的に「自己決定」に根ざしているのだ。では、日本における終末期の状況はどうなのだろうか?

<そこで日本の現状である>
漠然と「日本では安楽死は認められていない」と考えている人も多いが、この理解は正確ではないと美馬教授は語る。

「たしかに日本では、積極的安楽死や自死介助は認められていません。もし行えば、殺人罪や自殺幇助罪に問われる。

一方、終末期にあり苦痛のともなう治療を行っている患者が、延命治療を中止した結果として死期が早まる、治療中止という名の『消極的安楽死』は日本でも認められています。

誤解も多いところですが、患者の意思で治療を中止し、結果として死に至ることは法的には禁じられていないのです。もちろん、本人が病気の予後と治療法について説明を受け、十分に理解し納得して自分で決めるという条件でのことです」

これは「尊厳死」ということだろう。

事実、厚生労働省が公表している
「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」は、“人生の最終段階における・・・医療・ケア行為の中止等は、医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである”

と明記している。

インフォームド・コンセントが普及している今の医療現場でも『同意』の見極めは難しいという。

一言で『同意』と言っても、
①本当に正しく内容を理解したうえでの同意か
②うつ病などの精神疾患による一時的な意思表明にすぎないのではないか
③いつの時点の同意を『本人の同意』とみなすべきか

といった注意点がある。

たとえば、長く病気を患っている人でも、気持ちは変化するという。どう変化するのか、想像するのは難しい。

しかし生きている限りは誰でも年とともに判断能力が衰える。自分だけでなく家族や友人など周りの人も同じことだ。したがって、偏った知識を持ったままでは、生き方を左右する誤った判断をしてしまいかねない。
と教授は注意を喚起する。

であれば、私たちはどんな心構えを持てばよいのか?

障害や病気あるいは加齢によって、今まで考えもしなかった自分に変化することもあるということを頭に置いておきなさい。ということだ。

ジイのように、今は「倒れたらすぐ殺してくれ」と言っておきながら、あるきっかけで「1日でも長生きしたい」と未練がましいジジイに変化することもあり得るというのだ。
そのためには、

『世の中には多様な生き方があると知っておくこと』
『ふれあう機会を増やすこと』によって、生き方は人によって一様ではないと気づくという。

たとえば、身体を思うように動かせなくなるALSの当事者でも、病気について発信するなど活動的に暮らしている人もいる。実際にふれあえればベストだが、情報として知るだけでも助けになる。
ということだ。

普段の生活の中で死に直面している人とふれあう場面は限られているが、フィクションやドキュメンタリーを通して当事者の姿を少しでも知ることはできる。
実体験ではなくとも豊富な事例を知り、“ 家族や友人、自分を重ねる ”ことが、いざという時の備えになる。という。

確かにその通りかもしれない。

人の考えは多種多様である。
これがベストと決めるわけにはいかない。
ジイのようにすぐ死にたいと思う人もあれば、どんな状態であり生きたいと思う人もある。そのどちらが良いということはない。それぞれが尊重されなければならない。

難しい問題ではある「安楽死」。しかし放置すべきでない。

生まれた時は自然の摂理のなかにあった人間の生。
最後の始末こそ己の生きた人生の知恵の中で土に返っても神は許してくれるのではないだろうか。

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Posted by 秀木石