覚醒剤と芸能人

雑記

Vol.2-16-33 覚醒剤と芸能人
2020.02.16

またか~と思った。
芸能人の覚醒剤逮捕者は、もう驚くような事件ではなくなった。
ただ、殺人など悲惨な事件に感じる感情とは若干違う。
ただ、ただ、「悲しい」というか「寂しい」というか「切なさ」がつのって体中に虚脱感を感じる。
それは、何故か?
決して貧しい人間ではない、華やかな舞台で活躍する表の顔とは裏腹に、麻薬の売人に頼らざるを得ない希薄な人間関係を思ってしまうからだ。

昔、ジイの小さい頃、ヒロポン(覚醒剤)という言葉を聞いたことがある。
昭和初期、疲労回復剤として売られていたこともあり、すでに覚醒剤取締法が制定されていたが、それほど罪悪感なく、大人たちがオモシロおかしく話していたのを思い出す。
ところが徐々に取り締まりが厳しくなるにつけ、闇での流通も難しくなった頃から、値段が高騰、少量でも多額の金になることから暴力団の資金源として格好のアイテムのひとつになったようだ。

売人の多くは暴力団との繋がりがあるのだろう。自ずと金持ち、成金目当てとなれば、高級クラブやバー、接触しやすい芸能人に目がいくのは道理である。有り余る金、見栄を張らざるを得ない弱さ、容疑者Mに限ったことではない。

私達一般人は、事件が発覚する度に、え~、なぜ?何故?と自問自答する。
絶頂期の人間である。あんなに売れてるのに、と思うのがジイのように平凡な市民が感じる普通の思いだ。
しかし、スポットライトと熱狂の快楽を一度でも味わえば世界は変わると想像するしかない。

ブレイクした時の予想以上の人気と評価、己の実力がまだついていないにも拘わらず、自分の実力と錯覚する。
天と地ほどの環境の違いに舞い上がる自分を抑えることが出来ない。

日に日に高まる期待と、プレッシャーは一人で太刀打ちできるほどヤワではない。

己が弱ければ、落ちる恐怖にさいなまされる。

そこでの分かれ目は人間関係だ。親か家族か親友か、あるいは上司か、それとも信仰なのか。

心が、浮遊している人間に甘い言葉を拒否する力など端からない。

何かを失う恐怖を前に、一度だけならという自分に免罪符を与える。
一度は、二度目のスタートとなる恐さを知らない。

何かに躊躇して一歩が踏み出せない人間に、「思い切って一歩踏み出してごらん。さあ!勇気を出して」
と、誰かの背中を押してあげる夢への挑戦の世界とは真逆の、闇への扉だ。

しかし、明日は絶対やめるという心理の中に栄光を捨てられない自分がいる。
全てを捨てる覚悟というが、そう簡単ではない。
覚醒剤、、、「誰に迷惑をかける?」という思い上がりが覚悟に水を差す。

覚醒剤、副作用はかなり広い。抜け出す時は七転八倒の苦しみがあるそうだ。

想像を超えるヒットはある意味覚醒剤でしかない。
リクエストに応えようとするプレッシャー、覚醒剤は格好の応援者となり得る。
己をつらぬく棒のようなものが無い人間の陥る典型的なバッドストーリーと言えるだろう。

まあ、しかしいつまでたっても覚醒剤に染まる人間はなくならない。
意志の弱さと言ってしまえばそれまでだが、ほとんどの人間が、軽い気持ちで手を染めていく。
それは、友達に勧められたり、挫折、失敗、困難、悩みが原因で覚醒剤に助けを求めている。

月並みだが、その類の人間は、愛情に包まれた環境でなかったことは確かだ。
身を案じ、話を聞き、手を差しのべる人間がいなかったのだ。
悩みがある時に傍に何でも話せる家族も友達もいない不幸。
話せる友達がシャブ友とはシャレにもならない。

生きている限り、環境がいかに大事だということだ。
家族であったり、付き合う友達の大切さを思い知る。
「この親にしてこの子あり」というが、この人間にしてこの友だ、自業自得としか言いようがない。

芸能界で覚醒剤犯罪はなくならないであろう。

スポットライトと熱狂は麻薬のようなものだ。

誰かが言ってた、背中に・・棒のようなもの・・がないと太刀打ちできない。
それを哲学というのだろう、きっと。