オーレリアンの丘から・秋
Vol.1-12.1-322 ~オーレリアンの丘から~秋
2020.12.1
今森 光彦1954年滋賀県生まれ。写真家、切り絵作家。
大学卒業後独学で写真技術を学び1980年よりフリーランスとなる。
以後、琵琶湖をとりまくすべての自然と人との関わりをテーマに撮影する。
一方、熱帯雨林から砂漠まで、広く世界の辺境地の訪問を重ね、取材をつづけている。
また、ハサミで自然の造形を鮮やかにきりとるペーパーカット アーティストとしても知られる。
昨年、ジイは職を失いしばらく風来坊の時期に、これじゃいかんと自覚し、早朝ウオーキングを始めた。
朝早く目を覚ますのでとりあえずラジオをつける。
そこで耳にしたのが、ラジオ深夜便だった。朝4時15分頃だった。何気なく聞いたラジオから流れていたのは今森光彦氏の里山の話だった。
里山が好きで好きで、ある時里山が開発か何かで無くなる話を聞きき、何とかしたいと動き回るが、結局自分で所有しなければ守れないと知るに至る。考えた末、ついに里山を所有することを決断。それ以来30年こつこつと里山を整備しつつ今に至る。
その里山は今では多くの人に愛される “ オーレリアンの丘 ”として有名である。
その今森さんの四季便りが年4回、ラジオで流れるのだ。
今回は秋のオーレリアンが語られた。インタビュアーの村上アナウンサーも今森さんの話を聞くのが楽しくてしかたがないという感じが伝わり今森さんの話をさらに楽しいものにしている。
たんたんと里山の四季を語る今森さんの語り口はもう、自然愛に満ち満ちていて引き込まれるように聞き入ってしまう。
今回は秋。稲穂が緑から黄色に変わるころ秋が始まったと感じるという。
以前は刈り取った稲を “ 稲木 ” にかけて乾かすということが普通に行われてきた。その稲木が各田んぼの中に限りなく続く。その姿は言葉にいいつくせないほど美しく秋の風物詩である。
しかし、最近は稲を機械で乾燥してしまう。ほとんどなくなってしまった稲木を今ではオーレリアンの丘でしかみられなくなったという。
里山の話は秋の蝶、虫、動物たちにも及ぶ。彼らの鳴き声も様々である。私たちは普段そんなや動物の声を聞いたとしても気にもとめなく聞き流してしまう。そこに愛情を感じた時人は耳を澄ませるのである。
まるで他人の子の鳴き声なら聞き逃してしまう声が、我が子だと、何事が起こったかと一気に注意を傾けるかのように。
今森さんが録音したラジオから流れる虫の音、そう言えば雑木林を通る時気にもしないで通り抜けていたが、聞いたようなと思うことがある。
風の音一つにも、いろんな音があるという。葉と葉が擦り合う音、気に懸けなければ通り過ぎてしまう風の音。雨にも降り始めの音がきれいだという。ある時は葉っぱを打つ音を聴いたりする。
私はそんな音に耳を傾けたことがあるだろうかと思った。
そう言えば、平安のそのむかし、四季をこころから愛おしんでいたことがわかる。
ご存知『枕草子』である。
『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、・・・雨など降るも、をかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、・・・日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、・・・』
四季を目いっぱい愛でている。
私たちは、コロナで家に引きこもることが多くなった。
しかし、雨の日、雨の音に耳を澄ましてみる心のゆとりや、人が生きる基盤をささえている自然に耳を傾けることなどまずないのではないか。
雑木林、公園の木々の移ろいに、あるいはちょっとした風の音に耳を澄ませてみる。コロナ禍だからこそ自宅でそんな余裕のある落ち着いた日々を思うことも必要で大切なような気がする。
自然に対する無自覚、愛情のなさは自分の心のゆとりや豊かさの足りなさであろう。虫の声一つとして聞き分けられない。自然の中に生きているのにと思う。
今森さんが里山の風景を語る語り口は静かで穏やかだが、嬉しくて楽しくて仕方がないという感じを受ける。
今度は来年2月1日朝4時15分。冬のオーレリアンが語られる。
今泉さん、今年は初めて1年を通してオーレリアンにいられたという。初めて通しで自然を見つめてこんな嬉しい年はないと喜びを語った。お百姓さんはず~と自然と一緒でうらやましいという。
1年ず~といたが、発見がいくつもあり自然の奥深さを知った。これだけ見ていても見過ごしていることがあったと語った。
愛するものを語る時。言葉は生き生きとして魅力的になる。
美辞麗句は一切必要ないとしみじみ思う。