非情なる死

日本,雑記

Vol.1-12.21-342   非情なる死
2020.12.21

喪中ハガキが来た。亡くなられた方の名前がなかった。

いつも来る年賀状の主ではない。彼は確かジイより5歳、6歳も若いはずだ。気になって電話をする。何度電話してもつながらない。嫌な予感がした。3日目にやっとつながった。奥様の声には明らかなる不安が残っていた。

「主人が大動脈瘤破裂で亡くなったんです。一瞬のことで、、、」

10月のことですでに2ヶ月が経っているにも拘わらず心の整理がつかないと心情を吐露された。
私の電話で改めてその日のことがさらに強く蘇ったのかもしれない。声が震えた。

たった2、3年同じ職場にいただけだが、全国に支店がある中で滅多に同じ職場で会うことなどない。新入社員時の店舗が同じで、4回目の転勤で同じ店で会うことになるとは不思議な縁だった。

身近な人の死は何回も出会ってきた。しかし今回は後輩で特別な親しみを持っていてくれた友人だった。明るい人間で病気とは無縁と思える健康体だったこともあり、奥様同様信じられなかった。

今朝、元気に送り出した夫が、夕にその姿を見ることができない。奥様には考えられないことだ。今もって信じられないとおっしゃった。そのお気持ちが痛々しさが伝わる。

“ 私だけでない。世の中には日常茶飯事のように起きている ” そんな言葉は何の慰めにもならない。後悔先に立たずだ。もっと話をしておけばよかったは己の人間としての不出来を悔やんだ。

ここ数年で何人かの親しい友人を亡くした。未だ、メールの着信を消せないメールがある。

もう何人かの宛先は、友人から奥様名に変わった。白紙の賀状に名前を入れる。何年経ってもこの一瞬に当時が蘇る。

今も植物人間に近い状態で、8年もベッドにいる親友がいる。奇跡よ起これと、心の中で叫ぶことがある。

しかし、人の一生は何が幸せかはわからない。しかし、ベッドで眠る人間より、元気で仕事ができる人間でありたいと願うのは当たり前だが、

障害児で生まれても、この子のお蔭で幸せですという両親もいる。

或いは『五体不満足』で生まれながら彼の屈託のない個性は「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」と言い切り、『五体不満足』として出した本がベストセラーを記録。タレントとしても活躍する人間もいる。

かの昔、鴨長明は
「朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。不知、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。」と。

兼好法師は
「死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず。かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、おぼえずして来たる。」

と共に世の無常をといた

生と死とは別のものではない。死は、生の中にひそみ、それが現れる時期は予測不能だ。しかも、生・老・病・死の四苦の交替は、四季の変化と違って順序通りには来ない。死は、突然、人間を不意打ちすることがある。、、、とは人生の達人だから言えることだ。

弱い一介の人間である。特別のつながりを持った人の死が、あまりにも不条理であった時。冷静ではなかなかいられない。死に順番はないとはいえ、今の世、60代はあまりにも若い。

手にとるようにわかる夫人の悲しみにかける言葉を持ち合わせなかった。

ご冥福を祈るより仕方ないのだが、世は無常と理解しつつもあまりにも非情である。

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Posted by 秀木石