墨の芸術
Vol.2-6.12-515 墨の芸術
2021.6.12
昨日の書の話ではないが、ジジイの小さい頃は「ソロバン」や「習字」は近所のジジイが教えてくれたものだ。
新聞紙に書くのだ。今のように綺麗な半紙に書くのは最後の最後。後は学校の授業で書く時位だ。そんなわけで書には小さい頃から親しんだ。従って興味もあり、字が上手くなりたいという気持ちは子供ながらにあった。
今もジイの机の本立てには中学生(55年ほど前)に買った、「文化書道講座(代々木文化学園)」なるものがあり、時々思い出したように使う。特別書を習ったわけではないが、書が好きなんだと思う。書に関する記事があると必ず目が行く。
平成8年、今から25年前のスクラップである。
書家・榊莫山先生が、「墨の美・10選」で紹介された一つに、画家・熊谷守一が書いた「円相」というのがある。
(この莫山先生、焼酎のラベル「よかいち」「一刻者」などを書いたりCMに出たり一時人気者だった人だ)
ただ、墨で丸が書いてあるだけである。
左下に「守一」とサインがあるのみの実にシンプルなものだ。
この「〇」が書とは不思議なものだ。何度も言うが、ただの丸である。
そこが書の書たる所以である。
莫山先生に言わせると、
『円相の御三家は、と問われたら、わたしは「そら、仙厓・慈雲・守一や」と答える。なかでも熊谷守一が群をぬく。
余韻をちりばめて松煙墨で、円をかき、守一のサインは油煙墨。もう、にくらしい。』
と絶賛である。
この熊谷守一の画廊が東長崎にあるが、ジジイも一度行ったことがある。
自宅が美術館となったのだが、この守一画伯、庭で虫を一日みていても飽きない、石ころ一つあれば一日遊んでいられるという仙人のような人だった。たしかに長いひげに子供のような澄んだ目は、そんな生活が似合う異星人を思わせた。
ところで長い歴史を持つ日本の書だが、誰が一番うまいのか、気になるところだ。中国では王羲之が有名だが、日本では、、、
2002年に「書は楽しい」という連載記事の中に、日本の3筆に言及したのがあった。
日本書道史の頂点に立つ人といえば、やはり空海(弘法大師)をおいて他にないであろう。とベスト3を上げている。
① 空海 ②嵯峨天皇 ③橘逸勢の三人である。
その書が気になるところだが、ジジイは平成24年(2012)発行の「別冊太陽-日本の書」というものを持っているが、そこに空海、嵯峨天皇、橘逸勢が三筆として掲載されている。
たしかに、上手いと素人目でもわかる字もあるが、この字がと思うものもある。
書も絵も芸術の域に達すると、その理解にはかなりの認識がないと難しい。
誰だったか、「芸術とは、偉大な芸術とは、その前で我々が死にたいと願うところのものである」というのだが、いわんとすることは何となくわかる。
ただ、その良し悪しを理解するには良い絵をいっぱい見ることである。音楽であれば良い演奏をいっぱい聴く。良い音楽に接していれば、悪い音楽がすぐわかるという。
字も、きっとそうであろう。長い時を要し自分で書くことも必要だが、良い字を書き、良い字にいつも接する努力によって自ずとわかるのであろう。誰でも簡単に理解できるものであれば、「その前で死んでもいい」という気分にそう簡単になれるものではない。
ただ、その絵の前であるいは書を前にして、何時間も見続けても決して飽きない。というのが芸術の一つの基準のような気もする。
芸術と言われる作品があれば、毎日30分でも見続けてみる。一か月、半年、一年間見続ければ何かわかるかもしれないと漠然と思ってもみたりする。
ところで、デジタル社会。学校ではタブレット端末での授業、書くことさえ少なくなった。ましてや書道など一部の趣味の世界になりつつある。
墨の匂いは、いよいよ日本の日常から遠ざかりつつある。時代の流れと言えばそうだが、日本の文化として残す努力というのも必要な気がする。
最近、テレビの影響で俳句の人気が高いが、それも一つの工夫ではないか。
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