アメリカという生き方

世界,日本,雑記

Vol.3-14-60  アメリカという生き方
2020.03.14

新型コロナウイルスの猛威は凄い。
何が凄いか、感染者数も、世界の感染国の広がりもさることがなら、この2ヶ月のトップニュースは必ずと言っていい、新型コロナウイルスである。
きっと、このニュースがトップニュースから外れた時、終息宣言がなされていよう。

この感染力も致死率もインフルエンザとさほどかわらないと思うが、まるでターミネーターように正体がわからないというところに恐怖の源泉がある。

薬がある、ワクチンがある、何日で治る、等々のことが何一つわかってない恐怖に世界はさらされている。
そんな時に、アメリカのクルーズ船「グランド・プリンセス」の乗客が
「ウイルス感染の危険性を乗船前に知らされず、精神的苦痛を受けた」などとして、船会社「プリンセス・クルーズに1億5000万円の損害賠償を求めて提訴した。との記事があった。
さすがアメリカだと思ったが、この時期によくまあやるなというのがジイの率直な感想である。

因みに、アメリカの訴訟件数は正確にはわからないが、年間960万件、一日約2.6万件以上になると思うが、想像がつかないほど多い。
弁護士数も90万人、日本の1.6万人を遥かに凌いでいる。訴訟の件数からして当然のことだが。

この多さの起因はアメリカ社会の構造にある。

キーワードは自己責任だ。

自己責任とは「政府は介入および救済しないから、自分の権利は自分で守りなさい」という社会構造にあり、自分を守るには法律に詳しい弁護士に頼らざるをえなくなる。したがって日常的に弁護士は必須のアイテムになっている。当然ながら弁護士の数は膨大にならざるを得ない。

そういう社会だから、日本の訴訟は限りなく面倒くさいが、アメリカは簡便である。
訴状の内容が短く簡潔な箇条書きでOK、詳細な記載は必要なく、請求の妥当性など細かい内容は書かなくてもいい。さらに詳細な原因究明がされていない段階でも、訴訟が簡単に起こせる。
したがって、弁護士は日本の交番や、苦情受付センターの如く、日常困ったことの相談相手程度に身近な存在なのだ。そこで、勝訴請負人となる弁護士もそれぞれの分野のスペシャリストが必要になり当然だが弁護士の数は多くなる。

「コーヒーをこぼしただけで、3億円!!」

このニュースはアメリカ訴訟社会の象徴として大きく取り上げられたからご記憶の方も多いと思うが、ドライブスルーのマクドナルドで買ったコーヒーを勝手にこぼしてヤケドした人が同社を訴えて勝ち取った損害賠償金だ。
最終的には和解し7千万程度で収まったようだが、それにしても多額である。

有名人の離婚慰謝料なども数十億円は普通だ。
何しろとんでもない社会だ。救急車ですらタダではない。
自己責任とは厳しい社会だね。
ところで何でこんなになっちゃったのかということだ。

やはり国の成り立ちにある。
米国は様々な地域から移民が集まって成り立った国だ。何か問題を解決しようとしても、人種、宗教、言語、習慣などが異なり、共通の慣習・道徳・倫理観というものによって解決することができない。
そのため、揉め事が起こった場合は誰でも訴えることができ、公正な第三者の判断を求めるために訴訟制度というものが特に必要とされた。とある。
自分のことは自分で守る。そんなところからディベートなるものも生まれたのであろう。

なるほどと納得せざるを得ない。
日本のように、聖徳太子が十七条憲法の冒頭に掲げた「和を以て貴しとなす」として国が始まり、一民族で2600年以上を万世一系で紡いできた日本とは根本的に相違する。
万世一系の歴史は世界に燦然と輝く ¨永久不滅の日本の誇り¨ とするとことろである。世界もその一点において異論なく賞賛と畏怖の念を抱いている。今後も日本が日本であるための重要な形である。

アメリカは世界雑多の人種を受け入れてきた自由で開かれた社会だ。
だからこそ世界中の才能はそこに引き寄せられ、自由奔放にエネルギーを爆発させ、限りない人間の可能性に挑戦している。実にすばらしい社会だ。
しかし、強烈な光があるからこそ闇も深い。様々な軋轢もある。愛も暴力も人種差別も自由の中にうごめいている。激しい人間の生々しい姿がアメリカという自由大陸の魅力である。

明治以来、日本は欧米に追いつき追い越せと崇拝に近い固定観念が未だ消えない。
しかし何でもアメリカナイズすればいいと言うものではない。
良いとこどりをすればいいとも言い切れない。

アメリカの良いところはいっぱいある。ヨーロッパも、アフリカも、世界各国それぞれに良いところは必ずある。

言わずもがな、日本もだ。
日本は経済的には先進国として一定の地位を確保した。これ以上エコノミックアニマルになる必要はないとジイは思う。それよりも、寸断されたままの昭和10年代の一時期(1910-1950)を過去の歴史とを繋ぎ合わせることだ。

明治、大正、昭和初期を戦争の時代と忌避してはならい。
平安時代、鎌倉時代、江戸時代と全部繋がっているのだ。
明治、大正、昭和につながる激動の時代を日本人が懸命に生き切った歴史がもっと語られていい。

日本人は日本をもっと知らなければならない。
ジイも一生懸命勉強したい。
古事記も、源氏物語も、平家物語も、能も狂言も、、、そして我々の祖先が戦わざるを得ないと決断した戦争の時代も。

アメリカナイズされた若者が電車の中で英語で会話する光景より、狭い空間を必要とした茶の湯の意図を議論する高校生を見る方がよほど魅力的に思えるのだが。

日本が世界で生き残るためには、日本を日本人自身が知りつくし愛すること以外にない。

アメリカのように。

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