「きいろのランドセル」
Vol.2-6.22-525 「きいろのランドセル」
2021.6.22
子供の脳というのは、乾いた砂の上に水をまくが如く、与えれば与えただけ吸収してしまうのだろうか。
そう思わざるを得ない。
保育園年長になった孫は6歳である。9歳になるお兄ちゃんの影響も大いにあってその成長は驚くばかりだ。
生まれて1年ぐらいは泣くことが仕事のように泣いた。特にジジ、ババが抱くと発狂するように泣き、決して可愛い孫ではなかった。
頭の毛は逆立ち、まるでヤマアラシノの如くまっすぐ天にむかって伸びた。女の子にして不似合いな伸び方に笑いながらも若干の不安を抱くほどだった。
その孫がとても可愛く育った。お兄ちゃんとも大の仲良し。妹思いで好奇心旺盛なお兄ちゃんの存在は大きい。
あの、発狂するほど泣いた幼児の頃が懐かしくなるほど変わった。
元気で優しいお兄ちゃんの影響もあって、女の子らしい仕草もちゃんと育っている。
いつ覚えたのか、あの長い長い古典落語の一節の「寿限無」を覚えて、ジジババを驚かせた。
どこの親バカも一緒であろうが、この時点で親は「家の子は天才か!!」と驚くのであるが、子は天才なのではなく、それぞれに備わった天文なるものの発芽ではないか。
与えれば与えるほど吸収する柔軟な脳は驚異的である。まだ、小さいからと自らハードルを下げるのはよからぬ親の壁である。無理やり与えるのもどうかと思うが、興味を持ったことにしっかりフォローし、評価してあげる親がいることであろう。
孫のおかげで、ジジババも2年前にやっと将棋を覚えた。ババはすでに孫に太刀打ちできない。ジジイは権威を示す手前、負けるわけにはいかない。従ってあえて将棋の話はしない。今のところジジイへの挑戦状を突きつける気配のないことを救いとしている。
ところで、その孫の妹が詩を書いたといって、ママからラインが入った。え~っと、驚くほど、確かにピュアとの表現がぴったりの詩であった。
『きいろのランドセル』
わたしは はじめは
みどりが よかった
けれど
つぎは あかがよかった
つぎは くろがいいと
いった
つぎは きいろがいいと
いった
わたしのいけんは
もうかわらない。
というものだ。
ランドセルを買うと言う話はもう何か月も前に聞いていた。
ジジババは、おう!もう来年には小学生かと、嬉しい驚きと、財布の中から何枚羽を付けるかを算段した。
それは、ともかく、何しろ、孫のこだわりは一筋縄ではいかず、詩のごとく、今日、緑と言った翌日には赤が良い。
1週間経つと、黒、、、はたまた緑でも明るい緑がいい、親はそのたびに「6年間使うんだから」とランドセル探しに奔走の日々を送った。その親の懸命な姿を見るにつけ、幼心にも自らの決意を表明した、ある意味切なさを感じる決断の詩である。
親バカ、子バカの葛藤は傍から見ると、滑稽に見えるかもしれないが、この詩は「人生初の決断」が文字として表出した極めてまれな例である。
揺れ動く心象風景を見事に表現したシンプルな言葉、さらに “ いけん ” などという大人言葉に、成長過程が読み取れて実にほほ笑ましい。
“ 傑作 ” と呼ぶにふさわしいと “ ジジバカ ” は評価したのである。
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