山田かまちという天才
Vol.2-8.10-579 山田かまちという天才
2021.8.10
今日は山田かまちの命日である。
山田かまちは昭和35年生まれだから、生きていれば61歳になる。
“ かまち ” という一風変わった名前は、両親が終戦直後に読んだ歴史小説に出てくる少年 “ かまち ” の力強く生きる姿にあやかったようだ。
その両親の願いも叶わず、17歳でこの世を去ってしまう。
この時点で誰も “ 山田かまち ” を知らない。全国に知られるようになったのは死後13年も経ってからである。
作品が日の目を見る前に “ かまち ” の才能に気づき、その作品を大切に保存してきた関係者の目の鋭さには感服する。
◆かまち17年の生涯を辿ってみる。
出身は群馬県高崎。小学校は倉賀野小学校。
突出した個性を持ちながらも、それを表に出すことなく、幼少期を過ごした。
小学校の同級生に後にBOØWYとして活躍する氷室京介や松井恒、布袋寅泰、 岡田有紀子などがいた。
「かまち」が、小学校3年生のとき、動物の絵を1時間あまりで52枚を描き上げるということがあった。東京芸術大学出身でクラスの担任であった竹内俊雄氏は絵の上手さにも感心したが、その中の水牛の絵を見て衝撃を受けたという。
その衝撃は、県内の美術評論家・井上房一郎氏に、かまちを引き合わせるという行動までとらせたのだから尋常ではない。小学3年生の絵である。井上氏が「この子は将来、尾形光琳や俵屋宗達に匹敵する画家になる」と発した、というのだから凄い。
凄いと思うのは、この時の担任・竹内俊雄氏が小学生の描いたこれらの作品を大切に保管していたことだ。美術科出身の竹内氏の目に触れた幸運が幼い頃のかまちの作品を救ったことになる。
中学時代はビートルズなどのロックに傾倒。氷室京介や松井恒松とロックバンドを組んだり、高校時代には友人数人と学園祭で映画を作成するなど多彩な才能はあらゆる面で発揮された。
その限りない才能が世に知られる前の、昭和52年8月、自宅でエレキギターを練習している時の感電で、あまりにもあっけなく自ら幕を下ろしてしまう。
本当に感電死なのか?、友達でもあった氷室京介らのBOØWYの初期の代表曲である「MORAL」の歌詞の中には「あいつが自殺したって時も…」という一節がある、、、しかしその真相は闇の中である。
死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画の数々が発見された。17歳になったばかりで亡くなった山田かまちだが、作品数は膨大で、スケッチブックやノートに約1000点程のデッサンや水彩画、詩を残している。よくぞ散逸しなかったものだ。
死後、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版ししていたが、平成元年の13回忌の展覧会で彼の作品に衝撃を受けた広瀬毅朗画廊によって、平成4年に高崎市に「山田かまち水彩デッサン美術館」が設立される。
それによって小さな山田かまちブームが起きる。同年12月に『悩みはイバラのようにふりそそぐ・山田かまち詩画集』が刊行され、全国紙にも広告が載った。これをきっかけに広く世に知られるようになり、テレビでもかまち特集が度々放送された。
という経緯をたどる。
今では、中学校の国語、美術の教科書にも載っているそうだ。
ジイが山田かまちを知ったきっかけは新聞記事だ。その後、入手経路不明だが、我がスクラップブックに “ 生誕40周年記念 ” 山田かまち展2000.5のパンフレットのようなものの切り抜きがあるだけだ。一目見て衝撃を受けたことは間違いない。
今見ても、絵に内在する瑞々しい迫力と色使いは新鮮な感動を覚える。
そのパンフレット?に掲載された絵は水彩であるが、まるで油絵のようなタッチで描かれている。天才的な色使いと、絵の表現はまるでピカソの幾何学的な抽象画を、17歳のみずみずしい思想で蘇らせた油絵のような水彩画である。
きっと、絵の具の使用法などどうでもよく、描くための道具の一つだったのだろう。
絵には「逃げる女」とある。そのポスターに付された詩はまさに異次元のエロスさえ感じさせる
感じなくちゃならない、
やらなくちゃならない、
美しがらなくちゃならない
夭折とは山田かまちのような天才の死をいうのだろう。
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