筒美京平という偉人

日本,雑記

Vol.1-10.13-273    筒美京平という偉人
2020.10.13

作曲家・筒美京平氏の訃報が入った。

この作曲家は、表に出ることなく最もヒット曲を世に送り出した作曲家である。
ジイが若い頃聴いたヒットポップスのほとんどが当たり前のように作曲・筒美京平ではないかと思ってしまうほど凄かった。

<筒美京平氏のネットデータである>
『筒美京平氏の作曲作品の総売上枚数は7,560.2万枚(オリコン)で、作曲家歴代1位である。
別名義での作曲作品の売上枚数を加算すると7,600万枚を超える。オリコンが集計を開始した1968年から約50年にわたり、ほとんどの年で作曲作品がチャートインしておりヒットチャートランクインは500曲以上、そのうちチャート1位獲得は39曲、TOP3以内が約100曲、TOP10入りした作品は200曲を超えている。日本音楽界で最も多くのヒット曲を生み出した作曲家である。』

まさしくその通りの活躍だった。

ジイの若い頃は
作曲家:筒美京平  作詞家:鈴木淳コンビが定番だった。
大学時代の先輩だった橋本淳さんとは息もぴったり合っていた。その後、作詞家に阿久悠、なかにし礼、山上路夫、有馬三恵子、岩谷時子、松本隆等当時のヒットメーカーたちが筒美作品に関わった。

鮮烈な記憶はなんといっても昭和46年、尾崎紀世彦が歌った「また逢う日まで」だ。

代表曲の一部をとり上げてみたがジイが知ってるだけでもかなりある。
昭和43年・・・「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)
昭和44年・・・「サザエさん」(宇野ゆうこ)
昭和46年・・・「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)
昭和46年・・・「17才」(南沙織)、「真夏の出来事」(平山三紀)
昭和46年・・・「雨のエアポート」(欧陽菲菲)
昭和47年・・・「だからわたしは北国へ」「ひまわりの小径」
        (チェリッシュ)
昭和48年・・・「わたしの彼は左きき」(麻丘めぐみ)
        「色づく街」(南沙織)
昭和49年・・・「よろしく哀愁」(郷ひろみ)
        「甘い生活」(野口五郎)
昭和50年・・・「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)
昭和51年・・・「針葉樹」(野口五郎)
昭和53年・・・「飛んでイスタンブール」(庄野真代)
昭和54年・・・「魅せられて」(ジュディ・オング)
        「セクシャルバイオレットNo.1」(桑名正博)
昭和56年・・・「ギンギラギンにさりげなく」(近藤真彦)

まさしく我が人生と重なる。
昭和表示にしたのは、昭和という年号が変わるなど思わなかった世代だ。
ジイは職業柄転々と居住地も職場も変わったが、昭和何年と言えば、あの時、あの場所か、とすぐ分かる。誰でもそうだと思うが、歌はその当時の雰囲気を伴って蘇らせてくれる。

しかし、アイドルについていけたのは昭和57、8年頃まで、昭和60年仮面舞踏会(少年隊)あたりから世代の差を感じるようになった。

しかし、筒美京平氏はその後も、本田美奈子、中山美穂、斉藤由貴、小泉今日子、芳本美代子、荻野目洋子、西村知美など若者をターゲットにヒット曲を量産。凄いとしかいいようがない。

アメリカのヒット曲を参考にしながらその時代、その時代を先取りし、さらにそれぞれのアイドルの個性にも合わせる。大変というよりポップスが好きでたまらなかったのだろうと思う。76歳までは旺盛な作曲活動をされていたと聞く。
まさにJ-POPを引っ張ってきた最大の功労者ではなかろうか。もう偉人レベルだ。

50年もの長きに亘り、若者を中心としたポップス界の最前線で活躍したそのセンスには脱帽するしかない。

近いうちにトリビュート番組が企画され放送されるだろう。
その時を楽しみに待ちたい。

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Posted by 秀木石